ふるさと・厚狭の特産「赤間硯」の歴史

私の子供時代、多分昭和30年代頃だと思われるが、山陽本線美祢線の駅である、国鉄厚狭駅の切符売場の近くに厚狭特産品コーナーとしてガラスのショーケースが置かれ、その中に紫色の「赤間硯」(あかますずり)が名札と共に陳列されていた記憶がある。
☆ちなみに硯(すずり)は毛筆書きする場合、墨を水で磨りおろし溜めておき、筆を浸す為の文房具。
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この記憶は、旧山陽町教育委員会が発行された「山陽町史」や「山陽史話第一集」を読んでいる内に甦って来たもので、この機会に今は全く廃れてしまった「赤間硯」についてこれ等を参考にしながら書き残しておきたい。

赤間硯」の名は下関の旧名赤間関から来ており、元々下関の名産で全国に売り出されていたが大半の原料石は対岸の門司産であった。
寛保元年(1741)厚狭の北東部・森広地区で硯石のなかでも最高級とされる紫色の紫金石が発見されその後、厚狭鋳物師屋(いもじや)地区でも発見された。

当初これ等の原石を下関に送り出して「赤間硯」に加工、赤間硯の上等品の石は厚狭と言われるようになった。
その後厚狭で硯完成品にまで加工する事が徐々に始まり、寛保から約100年経過した天保期の「防長風土注進案」(江戸時代長州藩が藩内各地域の風土実態を報告させた史料)によると厚狭に27軒の硯師と2軒の硯屋が有った。これは当時の厚狭村の全戸数583軒の約5%に当たる。

明治になると教育普及に併せて筆記用具としての硯が国民全般の生活必需品になり厚狭の硯産業はにわかに活況を呈し、硯工は一挙に200人以上になり農家の副業としても結構なもうけ仕事になった。

大正・昭和になると鉛筆やペンの普及により需要が落ち込むことと併せ、農民が工場に向かうことにより硯生産は衰退に向かい、さらに戦争がとどめを刺すことになる。

戦後まだ原料の硯石が豊富であった事に着目し、昭和33年厚狭の大理石加工を本業とする長門石材株式会社が、機械にかけて石を切り大量生産を試みたが結局数年後に休止したとの事である。
私の記憶の中にある厚狭駅の紫色の硯はどうも長門石材株式会社が製作したもののようだ。

現在「赤間硯」は国の伝統工芸品に指定され、厚狭のとなり宇部市万倉地区などに少数の職人さんが活動されているようである。

今年初めて栽培しているシシトウの花、シシトウは天ぷらに!
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