山陽道厚狭宿

[この項は故郷の歴史をずっと書いてきたものの一つですが、ゆかりの人以外には分かりにくい固有名詞がとても多くなっており、大変申し訳ありません。]

私の故郷、山口県厚狭(現山陽小野田市)のまちが古代から山陽道の宿駅で、一時期山陰道山陽道を結ぶ枝道の起点であったことも分かっている。(2019、6、24のこの日記参照)

江戸時代、近世になっても山陽道に於ける位置付けは変わらず、東の船木(現在宇部市)、西の吉田(現在下関市)が本宿、その中間にある厚狭は半宿であった。

本宿には大名等が泊まる本陣があり、半宿は旅人宿が基本であったものの、大名、幕府役人などが通過する際は休憩や昼食を取る事があり、その場合は街道からそう離れてない「大福寺」や「祐念寺」等が利用されたようで、「厚狭毛利家代官所日記」等を読むとこの場合挨拶、接待等結構大変だった様子がうかがえる。

万治元年(1660)新しい町つくりをして街路を南へ移しており、それ迄は「祐念寺」から「大福寺」の前を通る旧国道2号線に沿っていた様だが、残された絵図から、この時点で今の本町筋に街道が移り厚狭川を西に渡って直ぐ左折、その後また右折して「広瀬」から「山川」に至る道筋になったようである。

「山陽町史の裏表紙にある、厚狭宿を表す地下上申絵図」
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この東西に抜ける山陽道に対し、南北の脇道として「加藤小路」から北の美祢地方に抜ける伊佐道(現在の国道316号線とほぼ同じルート)、また厚狭毛利家の居館があった「郡小路」を抜けて南の河港「下津」へ抜ける道があった。
当時厚狭市と呼ばれた宿場の町並みは天保期で上35軒、下153軒と記録にある。

山陽道の内で、厚狭川に架かる橋は当時木造の仮橋〈天保風土注進案による:幅6尺(約1.8m)長さ26間(約47m)〉で現在の橋の位置より少し下流にあり、洪水の恐れがある旧暦2月から7月までは取り外して渡し船で代用していた。
この橋の掛け換え、修繕、渡し船の修繕等は地下(じげ)と呼ばれた村の負担で、「厚狭、郡、鴨庄、山野井、山川」の各村が共同負担したようである。
渡し船も定期的に新造が必要でこの場合は藩の負担とされた。

宿場付近の農民には助郷(すけごう)と呼ばれる、役人などの往来を助ける夫役があり、厚狭宿には駅馬15匹、人夫25人、渡し船1そうの定置が決まりで、その負担は極めて過酷であったと言われる。
特に幕末になると役人の往来が頻繁で、農村が疲弊する要因の一つであった。

尚、厚狭川に架かる橋は明治4年季節の取り外しを必要としない木造の常設橋「鴨橋」として近郷からの献金、労力提供もあり現在地で完成をみた。
その後幾度か水害で流失し(5月13日のこの日記で取りあげた「ゆかりの人びと・山陽道厚狭の町」にも流される場面が出てくる。)昭和2年コンクリート製へと作り替えられたが、老朽化もあり平成28年4月新たな橋に生まれ変わった。

6月13日のこの日記「田植えの風景」に載せた稲がしっかり根付いてきた。
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