「秀吉の朝鮮侵略と民衆」

北島万次著「秀吉の朝鮮侵略と民衆」岩波新書 刊を読み終えた。

日本の戦国動乱に終止符を打った豊臣秀吉が、天正20年(1592)から慶長3年(1598)までの間に2度に分けて行なった朝鮮への出兵は、日本と朝鮮半島との間の大きな負の歴史のひとつである。

私はこの出兵に従軍した毛利氏や一族の厚狭毛利家を追いかけている関係もあり、この事の概要は把握していたが、この本によって戦乱戦闘の経過や影響をより深く理解出来た気がする。

本の前半はこの戦乱のアウトラインの記述が占めているが、後半部に特徴があり表題に「民衆」という表現があるように日本、朝鮮双方の民衆がこの戦乱によって受けた苦難が当時の史料を元に記される。

朝鮮出兵で日本側に大きな打撃を与えたものは朝鮮の宗主国中国・明の援軍派遣と、朝鮮の英雄・李舜臣(りしゅんしん/イ・スンシン)が指揮する朝鮮水軍の活躍であった。

著者はこの名将・李舜臣の備忘録である「乱中日記」をひもとき、この中に記された海戦の計画や経緯、諸将や兵卒の動き、非戦闘員である船漕ぎや船大工、更には降倭(こうわ)と呼ばれる日本側からの投降将兵や陣夫などの様子も明らかにしている。

特に降倭については千人規模の部隊を率いて投降し戦後も朝鮮王朝で重く用いられた史上有名な沙也可(さやか)と呼ばれたような武将が居た反面、北方民族対策で使い捨てにされたものなどの記述には身につまされるものがある。

秀吉の死後豊臣政権が崩壊する原因のひとつとしてこの朝鮮出兵の影響を挙げられることが多いが、従軍諸将や兵卒の苦難、負担の大きさに対して報奨の無さ、夫卒や陣夫、水主(かこ)として動員された農民や漁民への非道な酷使などを見ると政権の崩壊が必然と思わせるものがある。

朝鮮側の民衆の苦難も凄まじいものがあり日本側に捕まり連行されたものが奴隷として転売されたり、生き残るために陶工として身を立てたりする例がある。

有田焼、薩摩焼唐津焼萩焼など西日本の陶磁器の歴史はこのときに日本軍の大名家に連行された陶工に始まった例が多い。

また秀吉は日本の従軍将兵に対して敵を討ち取った場合、大将の場合は首を、兵卒の場合は鼻を削いで戦功の証とするよう指示した。このため非戦闘員であるものまで多数の鼻切りの犠牲が出たといわれる。

元々秀吉は明国を征服しようという目的があり、その道案内を朝鮮に求めその交渉決裂が朝鮮への出兵になったと云われる。秀吉の前半生は輝きに満ちているが、後半生は甚だしく暗いものがあり豊臣の終焉と徳川への政権交代は必然であったと思わざるを得ない。

🔘今日の一句

 

一握の蚯蚓抱えて川釣りへ

 

🔘施設内のクレマチス