厚狭毛利家の開作②梶浦開作(古開作と沖開作)

昨日10月15日の続き

厚狭川河口西側部分の開作・干拓事業はすでに寛延2年(1749)厚狭毛利家五代・元連、安永年間(1770年代)七代・就宣の時代に藩府に許可を願い許されていた。

しかし実際に着手に至ったのは天保6年(1835)九代・元美の時代である。担当役人の任命、漁業者などへの説得、藩府からの検使役への対応などを経て鍬初め式が10月に行われた。

(元美は赤間関海防総奉行など藩の要職にしばしば起用され、また石炭採掘、郷校・朝陽館の復興などに努めた。勅子(ときこ)夫人は明治の女子教育のさきがけとして知られる)

着手がこのように遅延したのは、幕末の武家の大半がそうであるように、開作に要する資金が準備出来ていなかった為であり、完成後の田畑を担保として資金調達するなど困難を極めた。

いつの時代でも干拓は海中に堤防を築くことがキーポイントであり、これを一挙に仕上げねば暴風雨高波などに流され何度も工事を繰り返すことになる。

この梶浦開作は最悪の見本のような形で、金がないことが災いして中途で堤防が崩れ、その復旧と増築を繰り返したことが工事が長引いた最大の要因である。

それでも何とか第一期分の潮止めに行き着いたのが着手12年後の弘化4年(1847)11月で、この時役人や領民が総出でこれに当たったことが民政記録「代官所日記」に書かれている。

第一期分は56町5反歩(56.5ヘクタール)の面積が得られたが、この権利関係が借金工事の為に複雑化し、その整理は明治初期まで引きずった(それでもうやむやになった部分もあるとされる)と言われ、厚狭毛利家家臣の中にはこの関係で責任を問われ立ち退き処分を受けた者も出た。

第二期分は第一期の潮止め以前に既にスタートしていたがやはり金策は困難を極め、潮止めに行き着いたのが第一期に遅れること10年の安政4年(1857)6月で面積は46町歩(46ヘクタール)であった。

その後も灌漑用水の確保のための堤の築造、文久元年(1861)8月の高潮による土手の決壊などの復旧などと併せて経費は多額にのぼり、関係者の一部が藩へ訴えを起こす騒動まで引き起こし、担当役人の処分者を重ねて出すことになる。

経費の一部に充当する為に、家臣や地下(じげ・村)役人に強制的に借り上げ銀を割り当てるなどの非常措置も行われた。

第一期分は初め「上開作」と称し後に第二期分完成に伴い「古開作」とした。第二期分は「沖開作」と呼ばれる。

🔘「古開作」の明治17年に建てられた厳島神社の祠と、大正10年に建てられた干拓記念碑の現在の写真を同窓生に送って貰った。厳島神社は海の守り神でもあり、その事から海を干拓した地の鎮守としたと考えられる。

🔘足かけ22年に渡るプロジェクトで、経過を見ると資金計画が杜撰なことには驚いてしまうが、それでも何とか時間をかけて完成にこぎ着けているその粘り強さには感心してしまう。

このような苦労を経た土地が、現在までも実りをもたらし続けていることには、ふるさとの先人に感謝の念を抱くばかりである。

別の同窓生から貰った情報では「古開作」の現在の農地は約50ヘクタールとのことなので、開作完成時の史料にほぼ近似していることもわかった。

🔘今日の一句

 

稲架掛(はざがけ)に海拓く地の歴史観

 

★刈り取った稲を木に掛けて干す方法は、やり方や地方によって色々な呼び方があるが、一番ポピュラーなのが「稲架掛(はざがけ)」らしく秋の季語になっている。

私が子供の頃には「稲掛(いなか)け」と呼んでいたような気がする。また同窓生は「はぜ掛け」と呼んでいたとのことであった。