3月21日の記事の続き
この記事を書くきっかけになったのは、山口県在住の同級生から「毛利勅子(もうりときこ)」に関連した講演会を聴講したとの連絡を頂いたことにある。
毛利勅子についてはこのブログ2020年3月12日の記事「厚狭毛利家⑭毛利勅子女史」を始め何回か触れさせて貰ったが、幕末激動の時代に厚狭毛利家当主・第9代元美(もとよし・元教)に嫁ぎ、山口県女子教育のパイオニアとして地元では広く知られ尊敬されている。
勅子女史は萩藩の支藩である徳山藩毛利家8代広鎮(ひろしげ・就寿)の7女といわれる。広鎮は多数の子を成し、養子や嫁に出したが「高須4兄弟」のように幕末に名を成した人物を挙げると以下のようになる。
・6男福原元僴(ふくはらもとたけ)、
萩藩永代家老の宇部・福原家を継ぎ、元治元年(1864)の「禁門の変」では藩主より軍令状を受け兵を率いて上洛、負傷敗退しその後幕府に依る第一次長州征討では、変の責任を問われ他の家老二人と共に切腹した。
・7男毛利元蕃(もうりもとみつ)
徳山藩第9代を継承、幕末動乱期に宗家を支え続けた。教養人として明治天皇にも知られ著作もある。
・8男秋元志朝(あきもとゆきとも)
生母の縁で、出羽国(でわのくに・山形県秋田県)山形藩から上野国(こうずけのくに・群馬県)館林藩に移封された秋元家を継ぎ、長州征討では幕府と萩毛利家の仲介を行った。
・10男毛利元徳(もとのり・定広)
幕末萩藩を率い「そうせい侯」ともいわれた毛利敬親の養子となって跡を継ぎ14代藩主、敬親と共に2人3脚で激動の幕末維新を乗り切り最後の萩藩(長州藩)主となった。
🔘毛利広鎮には一説によると正室、継室、側室併せて8人が居て、その子女は20人以上とされ、その中には夭逝(ようせい)された子が沢山居る。
家を維持するために養子が盛んに行われる理由の一端が垣間見え、大名家でもこのような状況であり当時庶民であれば相当な子供の死亡率であったことが窺える。
🔘幕末、厚狭毛利家の基本路線は長州藩のなかで、尊皇攘夷派(正義派)と対立する俗論派と呼ばれる守旧グループに属し、長州藩の内戦(大田絵堂の戦い)では厚狭毛利家の嫡子・宣次郎は俗論派部隊の総指揮官・諸隊追討総奉行を務め、高杉晋作、山縣有朋等が率いる奇兵隊など諸隊を中核にする正義派軍に敗れる。
然しその後の正義派政権下でも、厚狭毛利家は謹慎程度の処分で終わりそれ以上の処分を免れている。
これには毛利元就の8男元康を家祖とする家格と、当主正室である毛利勅子の、萩藩世子・毛利元徳などを含む徳山人脈が大いに与っているものと考えている。
🔘今日の一句
星生まる黄河の果てや春の闇
🔘健康公園には「桃源郷」と表示された、ハナモモ(花桃)やスモモ(李)の樹の集まりがあるが、ようやく春らしく開花が始まっている。