厚狭毛利家⑯五代目元連(もとつら)の失脚

長州藩では幕末、実質100万石と言われたその経済的基盤もあって雄藩としての飛躍に至るのだが、藩政の初期は関ヶ原敗戦の後始末や、貨幣経済の発達に米穀基本の体制が追い付かないこと等で常に財政は窮迫状態にあった。

この窮迫状態から抜け出すために諸般の改革が実行されるのだが、その皮切りになったのが支藩長府の藩主毛利重就が前藩主宗広の養子として本藩藩主を継いで実行した「宝暦改革」である。

この内容は小川國治著「転換期長州藩の研究」思文閣史学叢書
に詳しいが、その中に載っている毛利重就の後継者問題に伴う、私のふるさと厚狭周辺を領地としていた厚狭毛利家5代当主毛利元連の萩藩政からの失脚を書き残す。
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元連は右田毛利家から養子となった4代就久の3男で上の2人が夭逝したため5代目を継いだ。
厚狭毛利家は毛利本家を支える一門六家中の第三席で永代の家老職を勤める。
宝暦元年(1751)藩主重就の家督相続に当たり、江戸にてその儀式の諸用を勤めると共に翌年の重就の初めてのお国入りに際して江戸留守居役を命じられた。

毛利重就は藩主就任後着々と権力掌握を進めるが、この過程で重就は後継者に長府毛利家当主になっている実子を当てるよう動くが、前の藩主の意向は別にあり、この為前の藩主の意向を優先する一門準一門衆と対立、当初は前藩主の意向通り世子が決定したがその後その世子が病で死去、最終的に重就の実子が世子となって落着した。

この間、最初の世子が病死後に独断で事を進める重就に反対した一門第一席宍戸広周、第三席毛利元連が、国許一門に相談なく世子決定されたことに抗議した書面が、藩主を批判したと見なされ
・登城禁止、公事会合の出席停止
の処分を受け、その後隠居を命ぜられた。

その後家督相続は許され厚狭毛利家は徳山毛利家からの養子秀之助が跡を継ぐことになる。(元連実子は病没)

この様な藩内のあつれきを乗り越えて長州藩の初期の改革「宝暦改革」が実行されていくことになる。

それにしても実際の身近な歴史をよく見ていくと、「たそがれ清兵衛」に代表される、作家藤沢周平さんが描く武家社会の権力闘争の世界がそこに普通にあることに驚いてしまう。

「歩き」の途中、川の曲がり角に自生の花
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