厚狭毛利家代官所日記⑨宰判(さいばん)との関わり②

8月6日の続き

厚狭の郡(こおり)にあった厚狭毛利家代官所が萩藩宰判の役所・勘場と関わりを持った記載事例を抽出してみる。

天保6年(1835)の日記より
・1月22日
舟木市(ふなきいち)の商人が他国へ往来するに当たって、書類を調えて願書を差し出すので手形を認めて頂きたいとの趣旨で、厚狭毛利家代官職の名義で舟木宰判内代官宛申し入れ。

・4月26日
功績の有った舟木の村役人に1代限りで帯刀(たいとう・刀をおびること)を、別の村役人の嫡子(ちゃくし)に苗字(通常苗字は武士身分のみ)を許す願いを書類を調えて差し出すので認めて頂きたいとの趣旨で、厚狭毛利家代官職の名義で舟木宰判内代官宛申し入れ。

・9月10日
厚狭毛利家領内の村役人の交代を、理由と人名を挙げて厚狭毛利家代官職名義で吉田、舟木両宰判内代官宛報告。

・10月10日
昨日、吉田宰判代官の秋の勤めを引き受けるとの知らせが届いた為、今日厚狭毛利家代官職が吉田迄出掛け、いつもの通り代官役へ酒3升肴1折、算用方へ酒2升鯛1折を届けたとの記載。

・10月12日
10月10日の吉田と同じく舟木代官へ届けた。

・12月7日
舟木代官の暮れのお勤め今日からとのことで、厚狭毛利家代官職が出掛け、代官へ袴(はかま)地代金として金2百疋、算用方へ同代金として金百疋、その下勘場役人へのことは略す。
(金100疋とは4分の1両、1両を現在の価値で表すことは変動もあり難しいが天保期では約10万円程度という説もありそれからすると200疋が約5万円、100疋が約2万5千円程度となる)

・12月9日
吉田代官所へも舟木と同様の事を対応。

☆以前のブログでも書いたがこれ等の他、遠島などの刑事処分、行き倒れなどの救済、他の給領地と重なる事項などは都度宰判側と協議していた。

☆8月6日に書いたように宰判の最高職である代官は春、秋、冬の3回萩から現地に出張するが、その出張の最初の頃に厚狭毛利家の代官職が勘場に出向き、打ち合わせと贈り物(冬は現金も)を年3回必ず実施していたようである。

☆厚狭毛利家のような一門家であっても本藩の行政機構に対しては相当な気遣いが見られる。

◎萩・毛利藩の宰判制はいわば中央集権制度とも考えられ、当時では進歩的なものである。
一方その内部には厚狭毛利家のような給領主も多数抱えており、統制が複雑になっている。

この為幕末になると攘夷倒幕戦へ向けて藩の総力戦体制を築くため、これ等の一元化が必須となり桂小五郎大村益次郎により軍制の改革、諸隊編成が進められることになる。


◎これはノボロギクの仲間のような気もするが?