適塾④ふるさとからの塾生・桑原兄弟の足跡調査結果

10月27日のこの日記に、緒方洪庵先生の大阪適塾に私のふるさと厚狭からの兄弟塾生がいた驚きを書いたが、その後、大阪大学適塾記念センター、山口県文書館等の助力を得て塾生桑原兄弟の足跡を調査して現在までにわかった事を以下に書いて置きたい。

◎桑原家は代々、毛利一門で厚狭地域を領する厚狭毛利家のお抱え医で厚狭殿町に居住、第6代順道の娘於梅に厚狭の千崎から婿を迎え第7代玄晦となる。2人の間に生まれたのが兄玄阜、弟英甫(後に玄蟠)の兄弟である。

◎兄 桑原玄阜

嘉永6年(1853)16歳で適塾入塾、

・翌年嘉永7年(1854)7月27日17歳で病死(病名不詳)

墓所は私が通っていた旧厚狭小学校の直ぐそば殿町の貞源寺にある事がわかった。   兄の死で弟 玄蟠が次代を取ることになる。

◎弟 桑原玄蟠

安政5年(1858)17歳で入塾

・在塾中の記録に、万延元年(1860}師洪庵の供として他1名と共に備前池田候、手の痛み治療に随行して池田候より銀子を賜るとある。

----(師洪庵の出張治療に同行するほど信頼を受ける人材であった事がわかる。)

・慶応2年(1866)長州藩の史料「攘夷以来諸所病院出張医官記録」に毛利能登(厚狭毛利家当主)家来として10月28日から11月20日迄馬関出張、診察調合方とある。

-----(慶応2年は長州藩幕府軍と戦闘を交えた、四境戦争の年で別途この日記に書くつもりだが、厚狭毛利兵も7月以降九州小倉口の戦闘に参画している。この方面の屯営が馬関・下関に置かれておりこの事から長州軍兵士の治療に動員されたものと推察する。)

・慶応4年(1868)大阪洋学校入学

・明治3年(1870)大阪洋学校教授、俸給年15両の書き付けあり。

・同年山口藩(長州藩から改名)では奇兵隊等諸隊の脱退騒動が勃発、この対応の一環として藩政府は船を調達、領内出身の洋学校生徒約80名に帰国を命じ、常備軍と合流して小郡口で脱退反乱軍と白兵戦となる。玄蟠はその指揮をとる最中に弾丸を受け三田尻病院で治療を受けるも死亡した。

・29歳での無念の戦死であり厚狭物見山招魂場に祀られている。

・ちなみに玄蟠の夫人は厚狭の私の生まれた村、鴨庄 桐原家出身である事がわかった。

・尚、一子訥蔵も医学を志し大阪府立医学校、更に東京帝大医学部に学び帰郷して医業を開くも32歳で病魔に倒れ厚狭殿町で死去した。

●以上が今まで調べた内容だが、ふるさとの先人が若くして上阪、刻苦精励して適塾に学び前途を嘱望されながら何れも中途で死に至る無念さは何とも言い難いものがある。この記事が何かの折りに桑原兄弟のゆかりの人の目にとまる機会があるだろうか。