招魂場(しょうこんじょう)あれこれ

私たちが通った山口県厚狭郡山陽町立厚狭小学校は旧厚狭毛利家居館の近く殿町(とのまち)地区にあり、その近く真東の物見山(ものみやま)山腹に「招魂場」があり校舎を見下ろしていた。

厚狭の象徴・シンボルを挙げるとすれば、松嶽山(まつたけさん)、厚狭川、その次が物見山かもしれない。

現在は厚狭護国神社とも呼ばれているらしいが、当時はあくまで「しょうこんじょう」という名前で呼んでいただけで、それが何を意味するものかは全く知らず何か怖いような印象が有った気がする。

このブログで何度も触れたように幕末長州藩は「禁門の変」「四カ国連合艦隊下関砲撃」「藩内戦」「長州征伐・四境戦争」など苦難が続き庶民も含む夥しい犠牲者を出した。

長州藩では領内20箇所に神霊を祀る「招魂場」を設け殉難者の魂を招いて慰める祭事が盛大に催されており、厚狭招魂場はその20箇所の内のひとつである。

10月20日のこのブログに詳しく書いたように、厚狭では慶応2年(1866)7月「四境戦争」で九州小倉口へ厚狭毛利家・強義隊が渡海出兵し犠牲者を出した。

その小倉口から凱旋後の同年11月、厚狭毛利家が中心になり厚狭地域一帯の老若男女が総出で「物見山」の土をならして祠を建てたとされ、これらの経緯は山陽町教育委員会発行の「山陽史話」に掲載された「観山招魂社(かんざんしょうこんしゃ)由来」に書き遺されている。

このとき石碑が立てられたのが6名分、後に明治3年の御親兵から排除されたことをきっかけにした諸隊脱退騒動で戦死した桑原氏が追加された。(桑原氏に関しては2019年11月26日のこのブログに「適塾④ふるさとからの塾生・桑原兄弟の足跡調査結果」として書いたことがある)

この後長州藩は他藩と共に戊辰戦争を戦うが、この官軍・新政府軍側の全国の戦死者の霊を祀るために明治2年(1869)6月東京招魂社が創建され、これに尽力した中心人物が長州藩内で招魂場を作ってきた木戸孝允大村益次郎である。

東京招魂社は後に靖国神社となる。

また各地の招魂場は例えば厚狭護国神社と呼ばれるようになり以後の対外戦争の戦死者も含めて祀られ厚狭地域戦没者の先の尖った神道形式の墓石が立ち並んでいる。。

🔘現在の厚狭護国神社と墓石域

物見山から見下ろす厚狭の街、左側に新幹線

 

【白子(しらす)船  淡路で競う  秋の漁】

 

 

🔘またまた生まれて初めての植物に出会った。施設の職員さんに教えられた、園芸サークルが試しに栽培されているという「オカワカメ」別名「ぬるっぱ」蔓(つる)性の野菜でサラダなど生でも食べられるらしく一枚千切って貰ったがかすかに塩味のような感じがした。

小さな花が咲いている