四境戦争・厚狭兵(強義隊)の小倉口への参戦

10月16日の続き

慶応2年(1866)周防大島・大島口の戦いで始まった長州藩にとっての祖国防衛戦争は、過去の厚狭毛利家の俗論派寄りの立場もあり当初厚狭兵は動員から外されていたようである。

明治21年に記されたふるさと厚狭の戦死者を祀る招魂場(しょうこんじょう)の由来を書いた「観山招魂社由来(かんざんしょうこんしゃゆらい)」を読むと、当時慶応2年、小倉口の戦いが起きるとこの方面の指揮官・高杉晋作宛に嘆願書を出し

「以前の因循(いんじゅん・古きにこだわる)の汚名をすすぎたいので兵を出したい、了解してほしい」と訴え高杉から出兵が認められたとある。

(当然のことながら漢文であるこのくだりを読むと、藩内で不遇に追いやられた毛利一門の厚狭毛利家が、その立場を何とか挽回したいという切々とした思いが伝わってくる)

当時の厚狭毛利家の記録「豊前(ぶぜん・福岡県)出張戦争人員附出」を見ると戦いに参加したのは家老、参謀、斥候、書記などの役職以下2個小隊、88名となっており独立の部隊「強義隊(きょうぎたい)」と称した。

この人数は先に10月10日のこのブログに書いた厚狭毛利家が入手できた銃の数89挺に匹敵し、銃が持てたほぼ全員に動員がかかったと思われる。

記録に依れば慶応2年の7月28日午後埴生(はぶ)を経て九州に上陸して参戦した。

小倉口の激戦は6月から7月にかけてであり参戦の時期は遅かったものの88名の内戦死者4名、戦傷3名、他に敵の捕虜となって死んだ人夫1名が出ている。

私のふるさと厚狭の辛い歴史の一断面である。

 

🔘毎朝健康公園を歩く場合、今までの時期は木蔭を選んで歩いていた気がするが、気がつくと今朝は日向を選んで歩いている。

 

【朝寒に   知らずのうちの   日向(ひなた)路】

 

🔘通りすがりの花壇から