この頃の代官所日記にはやはり当主が参画している長州藩の内戦に関わる記述が多く、これらは別途経緯をブログ内で書いているのでここでは省略する。
9月12日のこのブログで元治元年12月に厚狭毛利家の養嗣子で俗論派部隊の総指揮官に就任した毛利宣次郎に次代の嗣子・英之輔が誕生したことを書いた。
慶応元年(1865)1月25日の記録
英之輔様御名に差し合わせた名は捨て去るよう沙汰に及んだ。過去の諸沙汰控えに見られる通りに沙汰をする事
同件について関連の寺社にも代官所から直接沙汰した。
同年4月9日の記録
若御前様(当時の萩本家の若殿様・定広の奥方)御安産、御男子誕生に相成り大赦(たいしゃ・罪人の赦免)が行われる。
各々の主家にて差障り無いものは宥免(ゆうめん)が申し付けられた。
また御出生の男子は御名・興(おき)丸と奉称される、御家来末々迄当たり有る名は改めるようにとのお触れがあり地方(じかた・村落)へも沙汰した。詳細は沙汰控えに有り。
🔘この二例に有る通り当時の領主に男子が誕生し名前が付けられた場合、同字を領内で名前に用いることは不敬に当たると考えられたようで、既に名付けた者迄改名を強いており、当時の戸籍・人別帳を与る寺社迄通達徹底している。
現代からみると理不尽極まりないが、以前の沙汰控えの記録を踏襲して沙汰通達されていることから見て、この事は長い間の慣習になっていたことが分かる。
この慣習は古来漢字文化圏の避諱(ひき・君主や目上の諱(いみな・実名)を避ける)から来ているのではないかと思われる。
🔘俳句サークルの先輩に教えて貰った健康公園の外周にある櫨(はぜ)の木、子供の頃かぶれた記憶があるので近寄りがたい。実は昔からこの木の実から蝋(ろう)を採って蝋燭(ろうそく)の原料にした。
長州藩では財政再建のために防長三白(米、塩、紙)を奨励したが、後に蝋を加えて四白として専売政策を実行した。蝋は櫨の植え付けから実の加工、蝋燭作りまで行い大阪へ売りさばいた。
この四白政策で得たお金が幕末維新の活動資金になったのは云うまでもない。
【郷土史に 想いを馳せて 櫨紅葉(はぜもみじ) 】