「僧兵盛衰記」

渡辺守順(わたなべしゅじゅん)著「僧兵盛衰記」吉川弘文館刊 を読み終えた。著者は仏教関係の歴史書の著作が多い。

僧兵と言えば一番先に思い浮かぶのは武蔵坊弁慶だろうか、主人の源義経に最期まで付き従い立往生を遂げて主人と共に国民的ヒーローのひとりである。

しかしそれ以外の僧兵と言えば僧の身でありながら乱暴狼藉、白河法皇が「賀茂川の水、双六の賽(さい)、山法師、これぞ朕(ちん)が心に従わぬもの」とその横暴さを嘆かれたという。

ちなみに山法師とは厳密に云うと山門と称された比叡山延暦寺の僧兵で、寺門(じもん)と呼ばれた園城寺(おんじょうじ・三井寺)では寺法師、南都(なんと・奈良)興福寺では奈良法師とも呼んだ。

白い花が咲く「山法師」という実のなる樹があるがこの花の形は僧兵の特徴である袈裟で頭を包んだ頭巾(ずきん)姿に似ておりこれから名付けられたといわれる。

山法師の花

史料に依れば僧兵を多く抱えていたとされる四大寺の最盛期には、延暦寺3000人、園城寺(おんじょうじ)1000人、奈良興福寺2000人、東大寺1000人、これに地方の諸大寺を合わせると2万人くらいの僧兵が全国でいたとされ当時の日本では大きな集団であった。

(これは私の勝手な試算だが中世の戦国時代、大名の万石当たりの軍事動員力は概ね平均的に200人~250人位と想定される。これを基準にすると延暦寺は15~12万石程度の大名並みの軍事動員力・経済力を持っていたことになりこれに政治や宗教上の力が加わる)

私の生まれ故郷山口県厚狭の象徴、松嶽山正法寺(まつたけさんしょうほうじ)にも僧兵がいたと思われる。

僧兵の成立は寺院が荘園を持ちその経済を守ることから始まり更に寺社が政治的発言力が強くなると非常時に備えた実力が必要とされたからであると著者は論じている。

中世の寺院勢力の大なるものを南都(なんと)北嶺(ほくれい)というが頻繁に起きた北嶺、延暦寺園城寺(三井寺)の争い、南都、興福寺東大寺の争い、更には北嶺と南都との争いが僧兵の実力を挙げたと著者は述べている。いわば争いのなかで僧兵という軍事力が増大していくわけである。

この時代と共に強くなった僧兵集団も武士の力が徐々に増大して統一に向かう過程で衰えていき、秀吉の紀州根来寺(ねごろでら)攻めで僧兵の時代の最期を迎えることになる。

著者はあとがきの中で自分の僧兵史は乱暴狼藉を働いたという悪僧のイメージを少しでも変えることであると書かれている。何れにしてもあまり類書を見ない研究であることは確かである。

🔘介護棟の屋上庭園、鶏頭の仲間

【小鶏頭(こけいとう) 鶏小屋(とりごや)の如(ごと)                                                                          一羽二羽】