厚狭毛利家代官所日記①天保6年

長州藩・萩毛利家の一門家臣・厚狭毛利家の領地は江戸時代を通じて厚狭の郡(こおり)村、山川(やまかわ)村、船木の舟木市(ふなきいち)村、逢坂(あいさか)村と現在は萩市の一部になっている高佐(たかさ)村でありそれぞれの村に家臣が居住していた。

領地の統治を主管するのは郡村の厚狭毛利家居館の敷地にあった勘場(かんば)で代官以下の役人が地下(じげ)の役人を指揮して農業振興、治山、治水、救恤(きゅうじゅつ・困っている領民を助け恵む)、賞罰、検見(けみ・作物の出来を実地に見て年貢を決める)徴税等の仕事を行っていた。
・山陽町教育委員会発行「山陽史話一」掲載の厚狭毛利家居館の図、本門の右手塀に沿った長屋が勘場、道を隔てた斜め向かい側が撃剣場や兵練場になる。

・昨年撮った厚狭毛利家居館跡、白い標柱がある。

地下役人は大庄屋が厚狭(下厚狭と呼ぶ)と舟木(上厚狭と呼ぶ)に1人ずつ、その下に庄屋と畔頭(くろがしら・庄屋の補佐役)がいた。
例えば厚狭は郡、下津、梶浦、に分けてそれぞれを庄屋が1人ずつ任命され、それを3庄屋毎に存内(ぞんない)と呼んだ。
地下役人達も必要に応じて勘場に出向く。

この厚狭毛利家勘場に於ける日々の出来事を書いた日誌「代官所日記」が残されておりその一部は厚狭図書館から刊行されている。
・刊行分の一部

専門家ではないが読める範囲で読み進み、逐次気になる箇所や面白い箇所をピックアップしてみる。

なにぶん刊行分も完全とは言えず、旧漢字旧カナ混じり文で虫喰い箇所や意味不明のところもあるが、自分の勉強も兼ねて読んでいく事にした。

天保6年(1835)
2月23日分
・広瀬村百姓・善五郎の居宅より出火、弟の居宅や長屋を焼失。関係者を呼んで究明したところ自火に相違無く、過去の例の通り本人を追込(おいこみ、おしこめ)処分に沙汰した。
検使役、代官、他役人2名、地下役人が現場に出張。

3月10日分
・百姓次左衛門はわがままの振る舞い多く、地下役人、親類、組内(百姓仲間)の言うことも聞かないので、代官所に呼び出し申し聞かせ、忙しい折りの厄害として追込処分。
但し7日後の十七日赦免の沙汰が出されている。

ーーーこの時代、比較的軽い刑罰として追込があり特定の部屋に入れて出入りを禁ずる。現代の禁錮刑のようなものと考えられ一定期間を過ぎると赦免される。
現代ではモラルの範疇(はんちゅう)に入ることも刑罰の対象になっている事が分かる。

◎我が家のニワフジ