「真田信之/真田家を継いだ男の半生」②

1月22日のブログの続き

ここでは黒田基樹著「真田信之/真田家を継いだ男の半生」から得られた新しい知見を整理しておきたい。

・豊臣政権時代真田昌幸は信州上田で3万8千石を得ていたが、長男信之は上州(群馬県)沼田で2万7千石、弟信繁(幸村)は豊臣(羽柴)家旗本として上田近辺で1万9千石を得ており真田一族としては合計で8万4千石を領していた。

関ヶ原前夜真田家父子三人は東西何れにつくか協議し、昌幸信繁は西軍に、信之は東軍についた。これを「犬伏の別れ」と言うが協議して別れたのは天明(てんみょう)であり正しくは「天明の別れ」である。またこの後昌幸は信之の本拠上田城に立ち寄ったところ信之の妻・小松殿(本多忠勝娘)に追い払われた有名なエピソードがあるが、この時小松殿は大阪に在り事実ではない。

関ヶ原戦後、信之は父昌幸の赦免を色々なルートを通じ家康に嘆願しているが全て拒絶されている。

・同じく戦後、昌幸信繁父子は紀州九度山へ隠棲するが信之は父子を継続して支援すると共に、将軍上洛に供奉した際昌幸を訪問した形跡がある。

・昌幸信繁一行の九度山生活は50名を軽く超えた所帯で紀州浅野家から50石を給されていたが、基本的には信之からの支出(仕送り)によって賄われていた。

・大阪の陣勃発に当たり信之は病気の為出陣できず息子の信吉・信政を派遣しているが、この時軍勢を揃えるに当たり信之の家臣が自身の所領の百姓を臨時に動員することを許している。「兵農分離」はあくまで平時のことで戦争時には百姓を被官として扱い一時的に侍身分にすることが戦国時代と同様に行われていた。

 

【七十路の松に尋ねる寒さかな】

 

🔘近くの小束山県有林では昭和の植樹祭で植えられた松が何本も巨木に成長している。

最も大きい幹は直径1m以上高さは30m以上あろうかと思われる。