ふるさと厚狭の教育事始め③厚狭小学校

私は山口県旧山陽町(現山陽小野田市)立厚狭(あさ)小学校の昭和37年(1962)の卒業生である。

当時の小学校は厚狭殿町(とのまち・厚狭毛利家の居館がこの地にあり付近をこう呼んだ)にあり生家のあった鴨庄(かものしょう・京都賀茂神社の荘園であったことからこの名が付いた)から数キロの道を厚狭川沿いに歩いて通った。

明治新政府は欧米先進国に倣って近代化政策の一つとして学校教育制度を樹立すべく、明治5年新たに学制を公布したが、
これにより山口県吉田部(旧吉田宰判を引き継いだ行政区画)の「第一番小学・厚狭小学(校は付かない)」として明治6年1月校舎を新築、2月に開校式をあげた。

まさにこの開校式をあげた地が私が通った殿町の場所に当たり、名称や規模はこの間色々と変遷があったものの昭和の町立厚狭小学校につながる。

この地は元々明治初年に吹き荒れた廃仏毀釈で廃寺となった「東明寺」の跡と言われ、周辺には旧厚狭毛利家家臣の家も多く静寂の地であったと言う。

明治6年に厚狭小学が創設されて100年になる昭和48年に記念事業として「厚狭小学校百年史」が刊行されている。
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私は厚狭の歴史を調べる過程でこの本の存在を知り、古本屋経由で入手したが明治6年以来の資料を細かく当たられ、その変遷が詳しくわかると共に、私が通っていた時代の写真や、見取り図も付いて本当に懐かしく読ませて貰った。

付録に明治以来の卒業生名簿も付いており、昭和37年分には私の名前も確かにあった。
これを執筆されたのは二宮啓任氏、坪井杉雄氏で何れも厚狭の郷土史研究に多大な貢献をされた先輩方である。

厚狭小学校はその敷地を山陽新幹線が通る事になり、昭和46年九月旧地より北の大字厚狭897番地の厚狭川河畔に移転し現在に至っている。

先年、帰省の折りに私が通った殿町の旧小学校跡地に立ち寄ってみたが当時の想い出が記憶のなかから色々よみがえってくるのを懐かしく感じたものである。

折角なので百年史に載っている想い出の校歌一番を書いておきたい。
♪♪『物見の山にさしのぼる 
   さわやかな陽を身に浴びて 
   心は加茂の流れより 
   なお美(うる)わしくすこやかに
   我が厚狭校の子は育つ』♪♪

今日のミニトマトの収穫
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