司馬遼太郎さんの大作・「街道をゆく」のなかの「近江散歩」を読んでいる。近江国(おうみのくに)は現在の滋賀県の旧国名である。
近江は元々「近淡海国」(ちかつあふみ)と呼ばれ都に近い淡水糊・琵琶湖を表した国名である。
余談に成るが現在静岡県の一部になっている旧国名遠江国(とおとうみのくに)は元々「遠淡海国」(とほつあふみ)と呼ばれ都から遠い浜名湖を表した旧国名である。
司馬さんはこの近江北部にある姉川のほとりで、織田・徳川連合軍と、浅井・朝倉連合軍が戦った「姉川の合戦」に思いを巡らす。
この戦いは周知のように織田信長が越前朝倉氏討伐に軍を進めた際に、信長の妹婿であった浅井長政が織田に背いて朝倉氏側に付いたことを発端にその決着を図る戦いでもあった。
信長は浅井長政を深く信頼していたとされ、当初長政が背いた知らせを聞いても容易に信じなかったと言われる。
この裏切りの原因は従来、長政の父・浅井久政は朝倉氏に恩がありその父親の意向に引きずられたというのが定説であった。
司馬さんは以下のように解説する。
『浅井長政は浅井の家と織田家は対等と思っていたが、織田家が急成長するなかで力の差異が出過ぎ家来のようになってしまった。
元々気位の高かった長政は、信長の同盟者である徳川家康のようにアゴで使われる部将のように成りたくないとの考えが底辺にあり、父・久政の主張に同調してしまった。』
織田信長は朝倉攻めに当たり浅井長政に全く連絡を取っておらず、複数の織田家臣が再考を促したとも伝わる。それ程信頼していたとも言えるが浅井長政の立場で云えば「恩や繋がりのある朝倉領に侵攻するのに何の事前連絡も無しとは何事か!」という不満が、今まで積もったものと併せて爆発したのかも知れない。
何れにせよ無用な敵を作ってしまい、信長の性格の短所が出ていることと、これで滅亡することに成る浅井長政の性格の短所、互いの性格の短所が大規模な戦いに直結することが垣間見える歴史である。
🔘昨日健康公園を歩いてふと見るとくぬぎの木にドングリの3~8mm位の小さな粒が実り始めている。世間では真夏日が続いているが季節は静かにゆっくりと進んでいる。