山陽町史③古代・厚狭の駅家(うまや)

大化の改新では全国を畿内と七道(東海道東山道北陸道山陽道山陰道南海道西海道)に分け周防国長門国山陽道に属した。また七道は都と各国府とを連絡する道の意味もあり30里(現在の約4里16km)ごとに伝馬を置きその宿駅を駅家といった。

特に山陽道は都と九州・大宰府を結ぶ一級官道で命令の伝達、状況報告、貢物の輸送などに往来する官使の用に供するため駅館、駅馬25~20頭が用意され、郷内の成人男子は駅夫や駅館の雑役夫として使われた。

駅館は大宰府からの外国使臣の往来に備え、国家の体面を保つ意味からも瓦葺き白壁の当時としては威容の整った建物であったと云われる。

長門国の駅家は五駅ありその一つが厚狭駅でその場所は郡家のあった厚狭高校南校舎付近に比定されている。

山陽道厚狭駅から山陰道の終点・石見国伊甘駅(いかん・島根県浜田市)に連結する陰陽連絡小路が通じていた。小路であり駅馬は5~3頭、駅間は約8~10km位でその間に十駅あったと云われる。

その経路は厚狭川の左岸現在のR316とほぼ同じ経路を美祢に向かうルート、厚狭川右岸で野田(のだ)鋳物師屋(いもじや)を経て厚保本郷(あつほんごう)へのルート、同じくより西寄りの山川、平原(ひらばら)万石(まんごく)を越えて厚保本郷へのルート等諸説ある。

何れにせよ厚狭は古代交通の枢要の地であった。

 

外来種肩で風切る夏野かな】

 

🔘外来種のオオキンケイキクが健康公園の隅の一角で群生し風に揺れている。