「俳禅一味の山頭火」

「分け入っても分け入っても青い山」「うしろすがたのしぐれてゆくか」など自由律ながら妙に心に残る句を詠んだ種田山頭火は私と同じ山口県の出身である。

先日このブログで金子みすゞについて触れた際、近代以降の山口県文人三人として金子みすゞ中原中也種田山頭火を挙げる人が多くいることに納得し、俳句初心者としてはもう少し山頭火のことを知らなければと思っていた。

ちょうどその折、図書館で出逢い借り出してきたのが大山澄太著「俳禅一味の山頭火春陽堂刊である。

著者は山頭火を世に紹介した人物として知られる俳人で共に萩原井泉水(おぎわらせいせんすい)に師事した自由律俳句の同門に当たる。

本の冒頭、その師の萩原井泉水が「俳句の道と山頭火」という文を寄稿されているがそのなかで私も以前から気になっていた「山頭火」という号について

山頭火という号は、生年の納音(なっちん)に依るものと思われ易いが、そうではない。おそらくは彼の気質が噴火山頭の焔の如き、はげしく燃えるものを理想としたのであろう』と書かれている。

(納音とは十干十二支(じっかんじゅうにし)の六十干支(ろくじっかんし・えと)を中国古代思想などにもとづき形容詞も付けて30に分類したもので、山頭火や井泉水などもある)

芭蕉の道と山頭火」の章では芭蕉の足跡と句作を山頭火と対比しながら『山頭火の漂泊も人生を旅と感ずる芭蕉の道と同じではあるまいか』『芭蕉の心を時代を異にしながら、昭和の世に愚かな生涯を漂泊流転したのが山頭火であると思うのである』と述べられている。

また「山頭火の跡を尋ねて」「山頭火のことば」「最後の日記」の各章は山頭火が行乞(ぎょうこつ・托鉢)をしながら漂泊する日々、庵を結んだ山口県小郡の其中庵(ごちゅうあん)愛媛県松山の一草庵(いっそうあん)等での酒や句作、孤独に浸る日々が書かれてある。

これらの中で山頭火が著者に語りかける言葉がいくつも収録されているがその中に懐かしい「のんた」という言葉が頻繁に出てくる。

「澄太君、のんた。心がすなおでないと、まいにちまいにち炊く御飯が、うまく出来ないものだよ。~~~」

のんた」は「ねえあなた」というような意味あいの山口県の方言で私の母親の世代では頻繁に耳にした言葉であり、確かに山頭火は同県人であると強く感じたくだりである。

冒頭の有名な句とは別に前記の「のんたと御飯」の言葉に関係する句もなかなか味があると思うのだが。

【こころすなおに御飯がふいた】

 

🔘山頭火の句の後に下手な句は申し訳ないが、

 

【カラオケに来し方映し夏に入る】

 

🔘ついこの間花が咲いたと思っていた健康公園の李(すもも)が、見上げるともう青い実をつけ始めている。