「坂の上の雲」⑯奉天会戦

日露戦争は基本的に朝鮮半島満州中国東北部へのロシアの脅威に日本が存亡の危機感を感じたところから発生したもので、明治33年(1900)の北清事変(義和団事件)以来すでにロシアは大軍を満州に駐留させており、戦争は満州での陸戦で決着せざるを得ない状況であった。

国交断絶を期して日本陸軍の一部は朝鮮半島に上陸し鴨緑江を越えて北進、主力は遼東半島に上陸して北進した。日本軍は鴨緑江、遼陽、沙河、黒溝台と続いた会戦でロシア軍の防御線を持ち前の突進力で突破した。

ロシアはナポレオン戦争ナチスドイツの侵攻にみられるように陸戦の伝統的な戦いかたは、敵の補給線が伸びきることを見越して戦力を温存して後退し、後に一挙に反撃に出るというもので、この戦争でもロシア軍総司令官・クロパトキン将軍はロシアが満州経営の中心に置いた奉天(現在の瀋陽)がその反撃のための拠点と見定め要塞化して待ち受けた。

日本軍も総司令官・大山巌、総参謀長・児玉源太郎以下、国力(弾薬補給物資、兵員補充)の限界を感じつつあり、奉天を敵兵力をせん滅する決戦場とすることを基本にした作戦を立案、日露両軍の決戦についての思惑が一致した奉天大会戦が明治38年(1905)2月下旬から3月上旬にかけて行われた。

このときロシア軍の兵力は約32万人大砲1200門、日本軍は25万人大砲990門であったとされる。ただこの時期普及し始めた機関銃については日本軍に先見性がありロシア軍がわずか56挺に対し日本軍は254挺を会戦直前に揃えることが出来、各方面でロシア軍の攻勢を辛うじて支える力になった。

会戦は日本軍の両翼からの攻撃で始まり、中央部ではロシア軍が押し気味で左右両翼の日本軍もロシア軍の反撃で時として敗走するような際どい戦いであった。

この切所にあってロシア軍の作戦指導の不味さや日本軍の耐久力によりロシア軍の一部に退却命令が出たことで日本軍は追撃して奉天が陥落、ロシア軍は崩壊して北へ敗走した。

この会戦の勝利によってようやく国際世論はロシア軍の敗色を認識し、日本もこの機に講和を図ろうとするが、ロシア宮廷では尚、東洋に回航しつつあるバルチック艦隊に期待をかけており最終決着は日本海に持ち越されることになる。

司馬さんは「坂の上の雲」のなかでこの会戦を以下のように書いている。

奉天会戦はどうみてもロシア軍が負けるべき戦いではなかった。兵力、火力ともに日本軍よりも格段の差で優位に立ち~~~が、作戦で敗れた。それも徹頭徹尾、作戦で惨敗した。ロシア軍の敗因は、ただ一人の人間に起因している。クロパトキンの個性と能力である。こういう現象は、古今にまれといっていい。』

クロパトキン将軍は奉天会戦後解任された。

 

【南風(はえ)来たり歩き遍路の急ぎ足】

 

🔘健康公園の雑草ではないシリーズ、花のうしろの毛の様子からマンテマと思うのだが。