私は山口県の生まれなので長州の事に殊更興味があり当然「陸の長州」と呼ばれ明治陸軍を創った長州人にはその功罪併せて牽かれるものがある。
しかしこの回は「海の薩摩」といわれる明治海軍の薩摩人のことなどを書くつもりである。
「坂の上の雲」は日露戦争がその主題の一つだが、その丁度10年前に日本は日清戦争を戦っている。その戦争が終わる明治28年(1895)当時の日本とロシアの海軍力を比較したデータは
・一等戦艦(1万トン以上)ロシア10隻、日本0
・二等戦艦(7千トン以上)ロシア8隻、日本0
・三等戦艦(7千トン未満)ロシア10隻、日本0
・一等巡洋艦(6千トン以上)ロシア10隻日本0
日本が持っていたのは二等巡洋艦以下の艦種のみであった。
日本は日清戦争に勝ち下関条約で得た中国遼東半島を、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉で返還せざるを得ない事態となり、朝鮮半島や満州を睨んで以後ロシアを仮想敵国とせざるを得ない事態になった。
ここから日本の信じがたいような建艦計画が始まり十年の間に巨大海軍といわれるような第一級戦艦6隻、第一級の装甲巡洋艦6隻いわゆる六六制海軍が出来上がりこれが日本海海戦の勝利へつながる基礎体力となる。
この計画を殆んど一人で設計したのが薩摩人・山本権兵衛(ごんのひょうえ)であり同じ薩摩人の西郷隆盛の弟・西郷従道(つぐみち)海軍大臣のもとで実行した。
連合艦隊司令長官に薩摩人・東郷平八郎を抜擢したのも山本権兵衛である。山本は東郷を推薦するに当たり明治天皇に「あれは運の良い男でございますから」と上奏した有名な逸話ある。
然しこれらの戦争準備は国民生活に多大な犠牲を強いた。日清戦争の終わった年明治28年の財政支出は一億円以下であったが戦後翌29年は平時にもかかわらず倍以上の2億円以上に跳ね上がり軍事費の占める割合は全体の48%となっている。
この当時臥薪嘗胆(がしんしょうたん)という言葉が流行し国民の対ロシア感情悪化のなかで生活の苦しさを堪え忍ぶことになる。
司馬さんは『日本の新海軍を日本人は飲まず食わずでつくった』と書かれており日本海海戦は日本人の飲まず食わずの辛苦の上にもたらされたものと云えるかもしれない。
【春の闇見えない星も確とあり】
🔘近くの庭のラッパスイセン