「坂の上の雲」⑭バルチック艦隊の大航海

日露戦争の勃発後ロシアは北欧バルト海を根拠地にするバルチック艦隊をアジアに回航して海上戦力を充実し、日本と大陸との交通を遮断して大陸の日本軍を孤立させようとした。

当時は日英同盟が機能しており、スエズ運河を始め世界の主要港湾都市は英国の管理下にありバルチック艦隊はこれらの利用が出来ないハンディを背負って出発せざるを得なかった。

艦隊は途中マダガスカルで急遽合流した艦隊も含めると戦艦8隻(内最新鋭4隻)を主力にした50隻近い大船団を組み、当時の常識では遠洋航海は不可能とされた、駆逐艦(現代の駆逐艦は数千トン級だが当時は350トン程度であった)工作船、病院船、等を伴っていた。

総員は約12000名、7ヶ月、約3万kmにおよぶ大航海であるが、途中英国に無関係の停泊地を捜しながら場合によっては洋上で給水、食料の調達、故障修理、などを行う。

なかでも船腹、船底に付着する貝の付着は艦のスピードに影響を与えるため通常はドックに入れて掃除をするが、この航海では停泊時に潜水夫が潜って作業する程度でどうしても不完全であった。

特に問題となったのが燃料の石炭補給である。当時の資料によると艦隊で使用する石炭は通常スピードの航海で1日約3000トンを消費したとされ、停泊も含めると全航海で何と約50万トンを必要とする。

ロシアはこの石炭補給をドイツの会社に請け負わせ、この会社の船が艦隊に先回りして各地の港で調達して艦隊に連絡し洋上に停泊して補給をすることになる。

当時最も良質の石炭は英国炭であったが前記の理由で調達できずカロリーのやや低い濃い煙の上がるドイツその他の石炭が供給された。ちなみに日本の連合艦隊はその全てが英国炭であった。

この航海、日本海海戦に従軍したノビコフ・プリボイはその著作「ツシマ」のなかで「この石炭搭載作業が、いちばん艦隊の力を消耗させた。帆船艦隊の奴隷の漕ぎ手の方がわれわれより楽だったかもしれない」と書いている。

実際の作業は原始的なもので、乗組員は石炭船の船艙にもぐりこんでいちいち石炭を袋に詰め、それをボートで受けとる。ボートが一杯になるとオールで漕いで本船に運び、艦の巻き揚げ機でそれを艦上にあげ更にそれを石炭庫へ下ろしていくほとんど人力作業である。

これに引き換え連合艦隊は、旅順要塞が陥落し旅順艦隊が全滅した結果旅順港を封鎖見張る必要がなくなり、充分な艦の整備、訓練に費やす時間が確保出来ている。

ここに書いたような苦難からバルチック艦隊のアジア回航は「奇跡の航海」とも云われるが、その後待ち受けていたのはこの巨大な艦隊が対馬沖で忽然と消滅する大敗北であった。

 

【日向から立夏節目に影の道】

 

🔘画像検索ではニワゼキショウと出たのだが。