「坂の上の雲」⑤バルチック艦隊の進路は?

2月17日のブログ「坂の上の雲」④の続き

日露戦争の命運を決した日本海海戦の前段として、ロシア・バルチック艦隊バルト海を出て、アフリカ喜望峰を廻りインド洋、マラッカ海峡を通過、東シナ海に入りロシア沿海州ウラジオストック入港を目指していた。

艦隊は一隻でも多くウラジオストックに入り、日本の通商破壊を行い、大陸と日本を遮断することが大きな目的であった。

この後入港までのルートは地図を見るとわかるが

対馬海峡を直進する最短ルート

・太平洋を迂回して津軽海峡を通るルート、但し海峡幅が狭く沿岸砲台から砲撃を受ける恐れがある。

・同様にして宗谷海峡を廻るルート、但し一番距離が長くなる。

この時連合艦隊は敵が対馬海峡を来ると予測し朝鮮半島釜山沖・鎮海湾に待機中であったが、敵艦隊をベトナム南部で見たとの知らせがあって後、その消息が途絶えてしまう。

もし敵が太平洋を迂回するとこのままではウラジオストックへの入港をみすみす見逃してしまうことになり連合艦隊は極めて苦しい選択を迫られることになった。

旗艦・三笠では明治38年(1905)5月25日まで待って敵艦隊が見えないときは連合艦隊津軽海峡に向かうことが決められ各艦に密封命令(日時を決めて開封される命令)が配布された。

これに異をとなえた一部の参謀から、「220日に及ぶ長期間の航海を経た50隻の大艦隊である敵は疲労しており、必ず最短距離を選択するはず」との判断から「敵は必ず対馬海峡にくる」との意見具申があった。

この為東郷司令長官の裁可で密封命令の開封が26日まで待つことになったが、その26日にバルチック艦隊の一部運送船が上海に入港したとの情報が入りここで敵は対馬海峡に来ることが確信された。

密封命令は開封されることはなく、この1日待つことが運命を切り開くことになった。

ロシアに残る記録ではバルチック艦隊の乗組員は連合艦隊との接触を避けるため、殆どのものが太平洋を迂回すると想定していたとされ、ロジェストウエンスキー司令長官の対馬海峡を通過するとの判断を疑問視している。

5月27日~28日に行われた対馬海峡での日本海海戦は練度や作戦計画に勝る連合艦隊の圧倒的勝利、バルチック艦隊は全滅し日本は救われたが、その勝利はいわゆる僥倖に助けられた紙一重と云える側面あったことを忘れてはならない。

 

【春雨に想いつ歩むあの何故を】

 

 

🔘近所の花壇、画像検索ではスノードロップと思われる。