誕生日と長崎忌「なぜ太平洋戦争を始めてしまったのか」

今日8月9日は私の誕生日だが長崎原爆忌でもある。

この年齢になると誕生日は冥途への一里塚のような気もしてあまり感慨はないが、8月のこの頃になるとマスコミの影響もあり、なぜあの無謀とも云える太平洋戦争を始めたのかをついつい考えてしまう。

日本史好きなのでその延長線上で日清、日露、満州事変、日中戦争、太平洋戦争関連の本は沢山読んで来て、今また図書館で借りたNHKが独自に取材した内容をもとに放送した「NHKスペシャル」を再構成した本「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」を読み直している。

戦争に勝つ要諦のひとつが「全力を挙げて敵の分力を討つ」すなわち自軍は兵力を集中すると共に敵の兵力を分散させて各個に撃破するというものである。
当時の日本は満州事変から引き続く日中戦争の泥沼にはまりながら真珠湾を奇襲して太平洋戦争を始めてしまう。
いわば自ら不利な二正面戦争という状況を作り出してしまったのは何故なのか?

これが私の長い間の疑問だが、今まで読んだり観てきたことを整理してみた現時点での私なりの答えの一端は次のようなものではないかと考えている。

・1931年から33年にかけて陸軍が対ソ連を見越して起こした満州事変、満州国建国までは中国や欧米についてもその範囲(万里の長城の外側)に留めるなら互いに妥協の余地があった。

・1933年の国際連盟脱退などの外交的孤立は世界の潮流が帝国主義から民主的なものへ移る潮流を見逃し、かつ軍と外務省の二重外交で各国の信頼を失ったことによる。

・陸軍は満州国防衛などの理由から万里の長城の内側いわば中国の核心部まで進出を図ろうとして1933年熱河作戦や華北分離を画策し、中国国民党を抜き差しならない状況に追い込み日本側も日中戦争を抜け出せなくなる。

・孤立から抜け出す為の選択が紆余曲折のなか1940年日独伊の同盟になってしまい、結果的に完全に英米を敵に回した。

政党政治の機能不全や国内世論に押されて積年の課題が米国と戦うことで解消されるような機運が出来上がり、日米交渉が不発に終われば石油などの戦略物資の禁輸が現実味を帯びることで特に海軍などが切迫感を持った。

・中国、英国などは戦略的に見て米国を参戦させることが勝利への道と考えており、米国へ向け積極的な工作を進め、それが米国の対日要求の過大さいわゆるハルノート(当時の国務長官ハルの対日要求書簡でこれが最後通牒になった)にも影響を与え、日本としても米国と戦わざるを得ないと決意した。

・以上のことから私の考える太平洋戦争開戦に至る point of no return、引き返すことがもはや出来ない時点は、盧溝橋事件から日中戦争へと拡大していく1937年7月ではないかと思っている。

・またこの先の戦争回避に向けて、何より深く考えておかなければならないことは当時の多数の人々、世論が開戦に賛成であったという事実である。

【九日は わが誕生日 長崎忌】

【開戦の 何故を思うや 長崎忌】

🔘玄関の寄せ植えNO2