対馬・万関瀬戸(まんぜきせと)と日本海海戦

長崎県対馬(つしま)在住でブログを運営されている方から、対馬の見どころのひとつとして島を上島と下島に分かつ万関地峡(まんぜきちきょう)とそれをまたぐ万関橋を写真付きで教えられた。

実はこの万関という名前にはかすかな古い記憶があり、もう少し教えを乞うと元々狭い地峡を軍が掘削して軍艦が通れるような運河にして1905年(明治38年)にここから水雷艇が出撃したとの事であった。

これで私の記憶が完全によみがえり日露戦争の最終決戦・日本海海戦(海外の呼び名・対馬沖海戦)とつながる。
その記憶をもとに司馬遼太郎さんの著書をまだ残る蔵書のなかから探しだした。

司馬さんの「街道をゆくシリーズ」第十三巻「壱岐対馬の道」と万関瀬戸が載っている対馬の手書き地図
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当該記載内容
『山から山に鉄橋がかかっていて足もとのはるか下が、定規で線を引いたような、平行線よりなる行儀のいい運河が掘り切られている。~~土地では万関(まんぜき)瀬戸という。明治の海軍がつくったものである。~~

明治三十三年のころで、明治三十七、八年戦争(日露戦争)の時は竹敷(たけしき)は多数の水雷艇の基地になった。バルチック艦隊朝鮮海峡にきたときには水雷艇軍は浅茅湾を湾口に向かって出発し対馬海峡に来た場合にはこの裏口ともいうべき万関瀬戸から抜けてゆけるようになっていた。

明治三十八年五月二十七日、結局、ロシア本国から回航されてきたバルチック艦隊対馬海峡を通った。水雷艇たちはこの「裏口」を通って出ていったのである。』

☆当時、バルチック艦隊ウラジオストック軍港を目指しており一隻でも多くたどり着き、日本が大陸で戦闘する為の補給線を絶つことが使命であった。

この為日本海軍はバルチック艦隊の主力艦を全滅させる必要があり、作戦では先ず主力艦同士の戦闘で極力多数を沈め、夜間になると小型の駆逐艦魚雷艇を出撃させ魚雷で残りの艦艇を沈めることにしていた。

海軍の戦闘艦で最も小さい水雷艇は概ね排水量100t前後で敵艦に肉薄して魚雷を打つ使命を持つが、日本海の荒波のなか主力艦と共に行動するには無理があり、戦闘海域に近い対馬の湾内に待機して、機をみて出撃して戦果を拡大する作戦は極めて合理的に思える。

日本海海戦は日本の作戦通り進行して完勝に終わり講和の決定打になった。
明治の日本海軍は日露戦争開戦の4年以上前には対馬海域での海戦を予測し、地峡を掘削するような地道な準備を進め、これらの集大成で勝利したことが分かる。

昭和の陸海軍と確かに違いがあるように思えてならない。
対馬ははるか昔、朝鮮との窓口を長く担った宗(そう)氏の時代からの国境の島であり、自分の目で見てみたい場所の一つである。

◎今朝は冬には珍しく右の金剛山、左手の葛城山共に雲に邪魔されず山頂までハッキリ見える。
金剛山の5合目辺りから雪が積もっているのが分かる。
帰宅して金剛山のホームページから積雪量を調べると10cmとなっている、雪中登山にピッタリ。
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