「坂の上の雲」⑫遼東半島と旅順

明治のまだ世界が帝国主義の論理で動いていた時代、日本は中国・清(しん)と戦い遼東半島、台湾、澎湖諸島を獲得した。

満州(中国東北部)を狙っていたロシアは直後に独・仏と語らい遼東半島の放棄を迫る、三国干渉である。国力の不足を自覚していた日本はやむを得ずこれを受諾する。

そのわずか4年後ロシアは清に迫り遼東半島の主要部、大連、旅順を租借、半島の先端にある旅順を要塞化し不凍港として太平洋艦隊の根拠地とした。まさしく帝国主義の見本のような話である。

司馬遼太郎さんは「坂の上の雲」で『満州の大陸部をてのひらとすれば小指一本つきでているのが遼東半島で、その小指の先に旅順要塞がある』と書かれている。

グーグルの地図を見れば分かるが渤海湾の奥にある港湾都市(北京の外港)・天津、首都・北京を包むように出ている小指が遼東半島で戦略上の要地と言える。

日露戦争開戦に当たり海軍戦力は露2(バルチック艦隊、太平洋艦隊)対日1(連合艦隊)であったため、日本海軍はロシアの二つの艦隊が合流する前に太平洋艦隊を撃滅し、1対1の戦力でバルチック艦隊を迎え撃つことを戦略の基本にした。

ロシアは逆に太平洋艦隊を温存させることが勝機とみて旅順港から出て来ず、日本海軍は広瀬中佐の殉職で有名になった港口に船を沈める閉塞作戦や、小型艦による魚雷攻撃を仕掛けるが要塞砲台に阻まれ全て失敗する。

焦った海軍は陸軍に半島側からの攻撃を依頼、元々陸軍は半島の先端にある旅順要塞は攻撃せず半島に守備部隊を配置して無力化するつもりでいたため攻撃の準備が不充分で、乃木将軍の指揮した日本軍の損害は死傷6万人に及んだとされる。

司馬遼太郎さんは「坂の上の雲」のなかで『旅順攻略というこの民族が経験した最大の苦難』と表現している。

いわゆる203高地を死闘の末に日本軍が奪い、ここからの砲撃で艦隊は無力化しロシア軍司令官・スッテッセルは降伏した。海軍はバルチック艦隊との決戦・日本海海戦を1対1で迎えることが出来、これが日本勝利の蔭の決定打になった。

日露戦争の結果遼東半島のロシア租借地は日本が受け継ぎこれを関東州と名付けここを警備駐屯する陸軍部隊を関東軍と呼んだ。関東とは万里の長城の東端にあった関所・山海関(さんかいかん)の東にあることによる。

 

【チューリップ雨を満たして飲めと如】

 

🔘健康公園雑草ではないシリーズ、コメツブツメクサと思われる。