「日本はこうしてつくられた」と神功皇后(じんぐうこうごう)伝説

作家・安部龍太郎さんの「日本はこうしてつくられた・大和を都に選んだ古代王権の謎」小学舘 刊 を読んでいる。

著者は中世や戦国時代の作品が多かったが、現在日経新聞に連載中の「ふりさけ見れば」など古代にその興味や軸足がが移ってきているらしい。

紀伊、丹後(たんご)、島根、国東(くにさき)、房総(ぼうそう)など列島の外縁部に当たる半島を旅しながら土地に詳しい古代史学者に話を聞いて、古代大和王権の成り立ちに想いを馳せて行く。

奈良大和も紀伊半島の一部であるとの考えで王権が誕生した大和を訪ねているのだが、ここで大和朝廷朝鮮半島に交易を求め軍事介入した「神功皇后三韓(さんかん・百済(くだら)、新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり))征伐」は、従来史実ではないという批判が多かったが、最近の高句麗時代の碑文などから史実であったという説が有力になりつつあると書かれている。

神功皇后は「日本書紀」などに記された人物で第14代仲哀天皇の皇后で第15代応神天皇の母親に当たり、仲哀天皇死後応神天皇即位まで摂政として大和朝廷を率いたとされる。

この神功皇后が自ら陣頭に立ったとされるのが、4世紀半ばの「三韓征伐」で、以後西暦663年の「白村江(はくそんこう)の戦い」で唐と新羅の連合船隊に日本船隊が完敗して撤退するまで、朝鮮半島に橋頭堡(きょうとうほ)を築いて技術や人材を受入れ、大和・倭(わ)国が富国強兵を進める端緒になった。

山口県は地理的な面もあり神功皇后伝説が多い地方である。
私の知っている唯一の山口県民謡「男なら」は幕末長州藩が外国船の脅威に対応するため台場(砲台)を築いた際に、領内老若男女が総出で働いた際の労働歌で、例え女であっても攘夷戦争に従軍したいと唄われた。

その歌詞の最後は女ながらに夫の仲哀天皇亡きあと陣頭指揮をとったと言われる神功皇后が称賛される。

♪︎♪︎ ~~~神功皇后さんの 雄々(おお)しき姿が 鑑(かがみ)じゃないかいなー オーシャーリ シャーリ ♪︎♪︎

🔘私のふるさと厚狭周辺でも神功皇后伝説が残されており、次回に書く予定。

🔘現在YouTubeで練習中。

蝉しぐれ 負けじと習う「 男なら」 】

🔘施設の庭シリーズ、秋の気配が少し。