秀吉の二度の大返し

私の引っ越した神戸の西の端の高台からは西国街道・旧山陽道を俯瞰(ふかん)出来る位置にありついこの事を書かねばと思ってしまった。

豊臣秀吉はその生涯で二度大軍を率いて反転し大攻勢に転じることで戦局を有利に導き大勝を博した。

最初は本能寺の変の急報を受けた備中(岡山県)高松城から引き返し、姫路を経て現在の私が住む地の目の前の海岸沿いをひた走り、大阪府京都府の境にある山崎の地で明智光秀を討ち破る。

何かベランダでこれを書いていると、ここから見える海岸沿いの西国街道を、東へ向かってひた走る軍兵達の姿が立ち現れて来るような気がした。

それから約1年後、織田家の跡をめぐって筆頭老臣の柴田勝家と対決した北近江(滋賀県)余呉湖(よごこ)のほとり賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは、秀吉は勝家の味方・織田信孝を討つため美濃(岐阜県)大垣に在陣中であったが、勝家軍が陣を出たとの知らせで急きょ反転、そのまま勝家軍に突入して敗走させた。


本来急ぎの行軍をして間を措かずに戦いに突入すると
①兵卒が疲れて本来の力量を発揮できない。
②補給兵站が間に合わず武器弾薬や食料に不足をきたす。
③各部隊の布陣が思い通りにならず待ち構えた敵に隙を突かれる。
といったことが起こり易い。

この二つの反転の行軍路は地図を見ると平坦に近くこの点は地勢が秀吉に味方した。

更に色々な史料を見ると秀吉側は
・金をふんだんに使い沿道から食料や資材を大量に調達した。
・行軍スピードを落とさないよう武器、弾薬、食料の輸送を兵卒から分離して専門部隊に任せた。備中から姫路までは一部を海上輸送したとの説がある。
・岐阜から反転する場合夜間行軍になったが、沿道は百姓の灯した松明で昼のようだったと云われる
山崎の戦いの前段では、各地の味方と行軍しながら緊密に情報を取り合い、戦場での有利な陣形や、優勢な軍勢にまとめあげた。
・賤ヶ岳では味方が有利な陣形を保てるよう自軍は砦にこもって手出ししないように厳命し、引き返した主力が突入出来ることを容易にした。

このような戦う前からの周到な手配りから、秀吉は本能寺の変を事前に知っていたのではないかというような異端の説が生まれてしまうが、実際賤ヶ岳の戦いでは勝家方を誘い出すため秀吉は敢えて岐阜に出掛けたというのが事実のようである。

秀吉は晩年朝鮮出兵や関白秀次、千利休を殺すなど後世から見るとおかしな老醜とも云える行動が多いが、この大返しの行動などは誰にも真似できない英雄の行動と思える。

朝顔に 嬉し涙の 雫かな】

🔘健康公園管理事務所横の朝顔