瀬田のゴルフと唐橋や甲賀のことなど

昨日は久しぶりの地域ゴルフ同好会「田球会」があり滋賀県大津市瀬田のゴルフ場へ再び出掛けてきた。
概ね3ヶ月に1回の割合で開催されるが、2回連続悪天候などで中止され約9ヶ月ぶりのコンペ会である。

天候には恵まれたがグリーン上でのパターの出来が散々でスコアーは46、50、トータル96、目標を7打もオーバー、落ち込んだものの他の人も悪く3位賞を頂いた。

パターが悪くなると通常のショットまでおかしくなる、次回までどう改善できるか悩ましい。

瀬田にはゴルフ場のすぐ近くに名高い「瀬田の唐橋」がある。唐橋の名前の由来は「からみ橋」、「唐模様」など諸説あるようだが京が都で天下そのものであった時代を通じて「唐橋を制するものは天下を制す」という言葉がある程その重要性は古来から変わらない。

地図を見るとよく理解できるが東国から京を目指そうとすると(逆の場合も)琵琶湖の険しい北岸を大きく迂回するか、琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川のどこかを渡る必要がある。

この為日本に戦乱が発生すると、琵琶湖の南端、瀬田川の出発点にあるこの橋を巡る攻防がしばしば行われたが、明智光秀が主君・織田信長を襲った「本能寺の変」の折りにも明智光秀の命運を左右する役割りを果たすことになった。

当時、瀬田周辺を領地としていたのは山岡景隆(やまおかかげたか)という武将で、隣り合う甲賀地方の地侍などの旗頭としての役目も織田信長から与えられていたとされ、本能寺変後の明智方からの誘いを断り、瀬田の橋を落とした。

この為明智光秀は、安土城への進軍が遅れ城が焼け落ちることになってしまい近江国(滋賀県)を押さえることに手間取り、「中国大返し」と呼ばれる秀吉の進軍速度に対応出来ず「山崎の戦い」で敗北、死を迎えることになる。

山岡景隆はこの後、秀吉に敵対する織田家家臣筆頭の柴田勝家に与して「賤ヶ岳の戦い」で敗北、秀吉から所領を没収され甲賀に隠とんすることになる。
これら一連の行動の本当の意図は本人しか分からないが客観的に見ると織田家に対する忠節で一貫しているように見える。

山岡景隆は決して有名な人物とは云えないが、足利将軍家にも刃向かったことのある反骨の地侍集団で甲賀忍者の源流とも云える近江甲賀衆の旗頭にふさわしい身の処し方のような気がして注目している。

◎瀬田のゴルフ場から甲賀の山々を見る。
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