「信玄餅」からの余談です

知り合いから山梨県土産として「信玄餅」というお菓子を頂いた。
いわゆる信玄袋といわれる袋の形をした包装に、個装の餅が、きな粉いっぱいにまぶされ小容器の黒蜜と同梱されている。
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コーヒーと一緒に頂いたが、きな粉と黒蜜が混ざりあった味は独特の懐かしい甘さで美味しかった。

甲斐国山梨県は云うまでもなく戦国大名武田信玄の地元であり出陣する際の非常食携行食に由来があると、しおりに書いてあった。
武田信玄は軍事行動を起こすに当たって「兵站(へいたん)」と呼ばれる補給物資のことを重要視する武将の一人であった。

中でも食糧の補給は最優先事項であり、「腹が減っては戦は出来ぬ」は当然の事ながら、もし補給が滞ると現地調達という名の略奪行動が始まり、住民からのゲリラ戦や占領時の不服従につながる。

軍事携行食には利便性や腐敗しにくい等も求められ戦国大名も知恵を絞ったが、武田軍の携行食には小麦粉を使う太麺「ほうとう」や固い味噌に色々なものが入った「味噌玉」等があったとされるが、全国的に共通なものには「餅」や「干し飯(ほしいい)・炊いた米を天日で干したもの、食べる時水や湯で戻す」等がある。

豊臣秀吉は武器、弾薬、装備、食糧などを含む兵站の重要性を熟知しており、本能寺の変の後急きょ反転して明智光秀山崎の戦いで破った「中国大返し」等は、その行軍スピードを支えた兵站の完成度の高さが勝利の決め手の一つとなった。

軍事行動の裏方である「兵站」を扱いその有能ぶりで豊臣家の中で頭角を表したのが石田三成である。

先の戦争では各戦線でこの兵站を軽視した作戦が行われ、ほとんどの死者が病死か餓死といわれるビルマからインドに抜ける「インパール作戦」など、その経過を見ると何とも言えないやるせなさを感じてしまう。

最近経済活動のなかの物流部分をロジスティックスと呼んで運輸、倉庫、部品供給などを担う会社がこの名称をつけているケースをよく見かけるが、この言葉の元々の語源が兵站であり、後方支援を意味している。

ついでに云うと武田軍の出陣を三橋美智也さんが唄う「武田節」もとても懐かしい昭和の歌です。
(私のカラオケレパートリー外です、念のため)

甘い餅を食べてついつい余談の方にそれてしまった。

◎歩いて防災センター脇を通ると寒いなかまだまだ綺麗に赤い菊が咲いていた。
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