軍師・孔明のこと

10月16日のこのブログで「赤壁の戦い」を書き、20日には「中国・少数民族の一断面」の中で司馬遼太郎さんの「中国・蜀と雲南のみち」を引用させてもらった。

このため否応なく三国志(演義)が描く蜀(しょく)の軍師・諸葛(亮)孔明(しょかつこうめい)のことに触れておかねばと思ってしまった。

魏(ぎ)・蜀・呉(ご)の三国が覇権を争った時代(西暦222~263頃)、蜀は辺境の地とも云える現在の四川省に本拠を置き、先主(せんしゅ)と呼ばれることになる劉備、後主(こうしゅ)と呼ばれるその子劉禅(りゅうぜん)を丞相(じょうしょう・最高位の官職、宰相)として支えたのが孔明であり、
その天下三分の計(てんかさんぶんのけい)によって三国鼎立状況を演出した。

その生涯を書き出すにはとても字数が足りないが、孔明に関して伝わる熟語や格言を使ってその一端を書いてみる。

臥竜鳳雛(がりょうほうすう)
臥せている竜と鳳凰(ほうおう)のヒナ、すなわち大人物が未だ世間に知られていない状態や若くして将来に備えている状態を指す。
この場合の竜は孔明鳳凰は後に共に劉備に仕えた龐統(ほうとう)を指している。
ーー今の日本にこそ臥竜鳳雛が必要なのだが。

・三顧之礼(さんこのれい)
後の蜀の皇帝・劉備孔明を迎えるべく訪ねるが三度目にして初めて会うことが出来、肝胆相照らす事になり孔明は軍師丞相として生涯を劉父子に仕えた。
この事から礼を尽くして人材を迎えることを表す。
ーー太閤記等で秀吉が軍師・竹中半兵衛を招く際の表現にも使われた。

・泣いて馬謖(ばしょく)を斬る
魏との戦いで孔明が日頃目をかけていた武将・馬謖が指示に背いて大敗する。この責任を問い私情を抑えて馬謖を斬り蜀の軍規を維持する。
ーー真のリーダーには身内や味方に対する厳しさも必要不可欠なのだろう。

・死せる孔明生ける仲達を走らす
魏との五丈原(ごじょうげん)の戦いに臨んだ孔明は死期を悟り、自らの死後蜀軍が撤退する際、魏の丞相・司馬仲達(しばちゅうたつ)が追撃するようであればこれに反撃の布陣を敷くように遺言した。
魏軍が追撃しようとしたところ蜀軍が遺言通りの布陣をしたため孔明の罠があると考えた仲達は撤退する。
生前の絶大な威光が死後も遺されている例えになっている。
ーー武田信玄死後その噂が駆けめぐるも、織田・徳川連合軍はその死が確定するまで武田に対し手出しが出来なかった。

◎先日種を蒔いたダイコンが芽を出し、一回目の間引きをした。一回目では一ヶ所5~6粒の種から出たものを3本にする。
間引き後の状態