中断中のひとりごと「流転の子/最後の皇女・愛新覚羅嫮生(あいしんかくらこせい)」

本岡典子著「流転の子/最後の皇女・愛新覚羅嫮生」中央公論新社刊を読み終えた。

というのも最近、中国清朝の皇帝一族の姓・愛新覚羅(あいしんかくら・アイシンギョロ)に関係するのではと思える日本の姓に出会い、もう一度関連する本を読まねばと思い探し出したものである。

日本と関係のある清朝皇帝一族と言えば「ラストエンペラー」として映画化された清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)氏、その弟・溥傑氏が知られ、溥儀氏は辛亥革命で退位の後満州国皇帝として再度即位、日本敗戦後は中国で戦犯扱いを受けその後民間人として暮らした。

溥傑氏も皇弟として時代に翻弄されるが、満州国時代に日本の嵯峨侯爵家から「流転の王妃」とも云われた「浩(ひろ)」さんを伴侶に迎え二女を成した。

長女・慧生(えいせい)さんは後に「天城山心中事件」で世の中の関心を集めた。

この本の主人公は二女の嫮生さんであり彼女を軸にして、溥儀、溥傑・浩夫妻、慧生さんも含む一族のその波乱の人生がドキュメンタリーとして記録されている。

特に敗戦後、父と離ればなれになった後幼い嫮生さんと母・浩さんとの一般人に紛れての満州からの逃避行や、文化大革命に於ける溥傑・浩夫妻の北京での迫害などはまさに苦難としか云いようがない。

溥儀、溥傑・浩夫妻はいずれも北京で死を迎えているが嫮生さんは日本に帰化、日本人男性と結婚して福永姓となり三男二女を得られているとのことであり、この五人が私の出会った姓に関係しているかは未だ定かではないが今後も継続フォローしたい。

実は嫮生さんの母、嵯峨侯爵家出身の浩さんには山口県出身の私には歴史の縁を感じるところがあり、その一端はこのブログに2022年11月12日と11月15日の二回「中山忠光の暗殺事件」として書かせて貰ったことがある。その概略は、

『幕末動乱の時代、明治天皇の叔父に当たる攘夷急進派公家・中山忠光文久3年(1863)大和五條の幕府代官所を襲撃挙兵した「天誅組(てんちゅうぐみ)事件」の盟主として幕府の追及を受け長州に亡命し匿われていたがここで一女を成す。

忠光は元治元年(1864)享年20歳で長州俗論派の指示による暗殺に倒れるが、娘は中山家に引き取られた後に嵯峨家に嫁ぎ、その孫に当たるのが浩さんである』

この本のなかで溥傑・浩夫妻の結婚写真が掲載されており、中山忠光の娘は「南加(なか)」という名前で浩さんの祖母として式に列席されていることがわかった。

山口県下関市綾羅木(あやらぎ)には中山忠光を祀る中山神社が慶応元年(1865)に創建されているが、嫮生さんはこの境内に「愛新覚羅社」社殿を大陸の方向に向けて建立し、溥傑、浩、慧生各氏の遺骨を納められたとのことである。

🔘今日の一句

 

茗荷芽(みょうがめ)を叩き育む春驟雨(はるしゅうう)

 

🔘施設の庭、画像検索からユキヤナギ(雪柳)と思われる。