「新街道をゆく②肥薩の道」

作家・司馬遼太郎さんの全43巻に及ぶ代表作「街道をゆく」を、司馬さんの生誕100年を期してNHKが映像化する「新街道をゆく」、今回はその五回目の放送で「肥薩のみち」である。

肥とは肥後国熊本県、薩とは薩摩国・鹿児島県であり、司馬さんが昭和47年にたどった道を「八重の桜」で西郷隆盛を演じた俳優・吉川晃司さんが令和に再び訪れる趣向である。

司馬さんはこの街道をたどるに当たり「要するに熊襲(くまそ)の国から隼人(はやと)の国へゆくのである」と書いている。

古代日本が倭(わ)といわれた時代、この地方は熊襲(肥後)、隼人(薩摩)と別称され南方独立圏として中央に対峙していた。この気風は長く引き継がれともに武を誇り独特の文化を積み上げときとして統一政権の誕生に対して反乱を起こした。

この番組で描かれた肥薩の主なエピソード、

・肥後モッコスといわれる自立心の強い肥後人の国は難治の国であったが、これをやり遂げた加藤清正が築いた熊本城は、天下人・豊臣秀吉徳川家康共に求めた、薩摩の島津抑えのためである。

一時は全九州を席巻した薩摩のエネルギーが再び噴出した場合、この巨大な熊本城を石蓋として抑えこもうとするのが秀吉、家康の大戦略であった。

・肥薩の国境(現在の熊本鹿児島の県境)は江戸時代を通じて固く閉ざされていた。

1500の兵を率いて関ヶ原の戦いで西軍に参加した島津義弘は敗戦が決定的になると敵中を突破して堺まで退却、そこから船で薩摩に帰った。薩摩に帰還出来たのはおよそ50人といわれ世に云う「島津の退き口」である。

薩摩に帰り着いた義弘は領国である薩摩、大隅、日向の国境を閉ざし臨戦態勢を敷く。実質的には戦国以降この国境は明治10年の西南戦争まで閉ざされた状態にあったと云える。

司馬さんは「大勢に順応仕勝ちな日本人の集団がこれほど一つ精神を二世紀半にわたって持続した例は他に絶無である」と書いている。

・薩摩島津氏は閉ざされた国として、領内に忍び入る一向宗(浄土真宗)を恐れ固く禁じて迫害、明治になってようやく隠れ念仏として出てきた。

一向宗を意味する講の勢力は領主にとっては恐怖の対象で、講の連中は横に結びあい「本来の主君は未来永劫の契りである阿弥陀如来で現在の主君はじつは一世の契り」と思っていたことが背景にある。

・薩摩武士が終焉を迎える西南戦争の戦局転換点は最大激戦地・田原坂(たばるざか)であるが、この田原坂の17日間にわたる戦いは薩摩軍が熊本城を落とすことにこだわった故の戦闘であった。

薩摩軍が熊本城を避けて進軍すればその勝機があったのではないかと云う議論が今もある。

これについて司馬さんは以下のように答えている。

「肥後の熊本城」というのは薩摩人にとって単なる城ではなく、その伝統意識のなかにあっては中央政権の象徴そのものであったのだ。

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