街道をゆく「明石海峡と淡路みち」

播磨国の内へ引っ越してきたので司馬遼太郎さんの「街道をゆく」の内、関連の部分を読み直す第二弾「明石海峡と淡路みち」
とにかく神戸市の西の端に引っ越して一番良かったことを挙げると南面全体に広がる海の風景かもしれない。明石海峡はベランダからは前方の林に遮られて見えないが屋上庭園からは海峡大橋と共に眺めることが出来る。

もちろん淡路島も前方に拡がっており紀淡海峡まで見通せる。

この紀行は播磨国明石から淡路島へ渡り島を縦断する。
淡路島はイザナギイザナミの国生み神話の島であると共に朝廷に食料を提供する御食国(みけつくに)でもあった。

現在淡路島は兵庫県の一部であるが、律令制のなかでは小さいながらも淡路国(あわじのくに)であった。
また江戸時代は阿波(徳島県)国主・蜂須賀家の領地という変遷がある。

〔誠に余談ながら、蜂須賀家では淡路島を稲田氏に治めさせた。稲田氏は蜂須賀小六の時代から従う重臣明治維新の際、淡路は独立した稲田藩であるという運動を行い阿波・蜂須賀家との間で流血騒ぎ・稲田騒動が起きる。
ドラマ化もされた船山馨さんの小説「お登勢」はこの事件を背景にしている。〕

明石海峡と淡路みち」のなかで特になるほどと思えたこと。
①現在二つの立派な櫓(やぐら)が残されている明石城は歴代藩主が徳川家の譜代大名で特に西国の抑えとして重要視された。

『この海峡の浜にこれだけの城を造らせて譜代大名を置いたのは家康以来、国内戦略の懸念にになりつづけていた長州の毛利氏と薩摩の島津氏に対する配慮であろうーーー』

🔘家康の期待も空しく幕末には西国の抑えだった姫路城も明石城も全く機能しなかった。
現在の明石城

②引っ越してきて毎朝ベランダから漁をする船を見ているが、この紀行で司馬さんが漁協の組合長さんから漁をする場所のことを聞いたときの答えの一部

『ーーー陸(おか)を見て決めてゆくのだ、という。ふつう三点で決める。播磨の海岸線の一点と、六甲の山のある角度と、そして淡路島の海岸線の一点を交叉させて決める。魚の種類によって、陸の三点がちがってくるが、当然ながらそのすべてを体で覚えていなければならない。ーーー』

🔘漁場の位置を決める方法が腑に落ちる。
今はGPSという我々がゴルフでもお世話になる便利なものがあるが現在も陸地を見て判断する方法が現場で生きているのだろうか。

【炎天を 我は涼しと とんび舞う】

🔘施設の園芸クラブが育てているスイカ、私も誘われているがまだ決めかねている。