東南アジアの日本人町・アユタヤその他

吉田元夫著「東南アジア史10講」岩波新書 を読み終えた。
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東南アジア各国の歴史を青銅器の時代から近現代まで概説したものだが範囲が広すぎるため、その中からここでは自分の興味本位で日本人町の事を書くことにした。

16世紀海禁政策が基本であった中国・明(みん)は倭寇(わこう・中世日本の海賊、密貿易人)の海賊行為に手を焼き日本人の中国渡航を厳格に禁じた。
天下統一を果たした豊臣秀吉徳川家康倭寇でないことを示す公認の朱印状を交付した朱印船貿易に乗り出した。

朱印船の中国寄港は不可能なので、主な行き先は東南アジアで、日本からは銀、銅、漆器、東南アジアからは陶磁器絹織物等を入手すると共に現地での中国船との出会い貿易の形で生糸、陶磁器を入手した。

主要な朱印船寄港地、フィリピン・マニラ、ベトナムホイアン、タイ・アユタヤ等には日本人町が築かれていた。
この日本人町には商人に加えて浪人、キリシタンなど幕藩体制から排除された人々も集まっていたと言われる。

これらの日本人町は1630年代の数度の鎖国令により日本人の海外渡航が禁止された事で衰退に向かう。

この内タイ・アユタヤには約1500人程度の日本人がいたとされ、その頭領が有名な山田長政で当時のタイ・アユタヤ王朝の王に信認され高官にまで登用されたと伝わる。

私がタイに駐在していた折り、3回ほどアユタヤを訪れ日本人町跡地に立つ石碑も見た。

タイの母なる川「メーナム・チャオプラヤー」の河口にあるバンコクから上流のアユタヤへ約80kmのルートは、映画「戦場へかける橋」で有名になったクワイ川沿いの鉄道を利用するか、チャオプラヤー川を観光船で遡上する方法があり、当時の朱印船等の貿易船はタイ湾からこの川のルートを利用したと考えられている。

余談ながらこの観光船ではタイダンス、ビュフェ形式のタイ料理が堪能出来てタイ観光の穴場かも知れない。
行きは鉄道で帰りは船でと言うのも良い方法です!
(現在のコロナ禍ではどうなっているのだろう?)

ちなみにタイ・アユタヤ王朝は1767年ビルマ(現在ミャンマー)の攻撃で滅亡、その後バンコクの対岸に都を置いたトンブリー朝を経て1782年バンコクに都を置いた現在まで続くラタナコーシン朝が建国された。

◎歩きの途中、くぬぎ林の近くでキバナコスモス?が花盛り
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