ふるさと厚狭の前方後円墳の学び直し④まとめ

厚狭の二基の前方後円墳長光寺山古墳と妙徳寺山古墳の築造は各々4世紀後半と5世紀初頭と考えられている。

この時期はヤマト王権が武力の他、古墳築造規格の配布や、銅鏡など副葬品の配布などを通じて各地に古墳文化を浸透させて支配地域を拡大し王権を強めて行く、いわば「倭の五王」時代の幕開け過渡期とも言える。

古墳の階層制を見るとその大きさによる序列と併せ、形状的な序列は前方後円墳前方後方墳、円墳、方墳の順であり、中央の王権は当然ながら、地方の前方後円墳に埋葬されているのはその地方の大首長であると考えられる。

山口県西部は律令制の地域国名は長門国(ながとのくに)であり、豊浦(とようら)、厚狭、美祢(みね)、大津(おおつ)、阿武(あぶ)の5郡で構成されていた。

一応このくくりで前方後円墳を考えて見ると、長光寺山古墳は長門国域で最も早く畿内型古墳・前方後円墳が出現するいわば先駆けである。

この事は当時の厚狭地域の大首長がいち早くヤマト王権の体制内に入り、王権の統治に貢献した重要人物であったと思われ、古墳の大きさや副葬品もそれを表している。

長光寺山古墳の次に築造された長門国域の前方後円墳豊浦郡域(現在の下関市一帯)の仁馬山(じんまやま)古墳であり次が妙徳寺山古墳となる。

その後古墳時代後期6世紀以降には現在のところ厚狭郡域では前方後円墳は見つかっておらず、大規模な上の山(うえのやま)古墳など豊浦郡域のみにその存在があり、長門国域の大きな権力が厚狭郡域から豊浦郡域へと移っていったことがわかる。またこの事は律令制国府豊浦郡の長府に置かれたことからも想像できる。

これは当時のヤマト王権が直面していた朝鮮半島との鉄を含む交易や、東アジアを巻き込んだ権力闘争という面から見て、半島に最も近い地理的条件を持つ豊浦郡域の重要性を示すと考えられる。

また同様の見方と併せ、長光寺山古墳より以前には豊浦郡域には前方後円墳が見られないことからすると、長光寺山古墳の地生えの被葬者と異なり、この豊浦郡域の首長はヤマト王権からある時期に直接配置された可能性があるのではとも考えられる。

一方長門国域でも瀬戸内から離れた美祢、大津、阿武の3郡には前方後円墳遺跡は存在せず、古代から瀬戸内海が交通の幹線であり、その海岸沿いが人口が密であったことと関連していると考えられる。

妙徳寺山古墳は厚狭川を挟んで長光寺山古墳と向き合う近接した場所にあり、築造時期もせいぜい半世紀以内の差で比較的近く、副葬品や人骨などから被葬者は女性ではないかと思われている。

また古墳の各部の寸法はほぼ長光寺山古墳の2分の1の縮尺でそこにも何らかの意味を感じる。

またその石室には豊浦郡域産の石が使われておりこのことから豊浦郡域の首長との関係性がうかがえる。

以上の事を前提に個人的に勝手なストーリーを描くと以下のようになる。

『空白の4世紀、厚狭地域に君臨した大首長はいち早くヤマト王権の西日本進出に協力しその体制下に入った。その子孫(娘?)の時代、この地方の大きな権力は豊浦郡域の首長に移行してその下方に立っていたが、先代までの功績もあり前方後円墳で手厚く葬られた』

何れにせよ二基の前方後円墳遺跡は、この地域の古代からの成り立ちとその重要性に思いを馳せる上で欠くことの出来ないものであり、厚狭に縁があるものにとって先人が語りかけて来る貴重な遺産とも云える。

今、私の頭の中には厚狭川周辺から集められた人の群れや大量の物資が、古墳の丘陵を目指して登って来る映像が浮かんでいる。

🔘今日の一句

 

歩めども山頭火には成れぬ春

 

🔘園芸サークルの畑、3月3日に植えた茗荷の芽がようやく5本出てきた、ふつうの野菜と違いなかなか芽が出ず、最初草の芽を茗荷と間違えてぬか喜びしてしまった。

茗荷は子供の頃家の裏で自生していて、花蕾(からい)と呼ばれる部分を薬味にするため採った記憶があるが、栽培は初めてでどの様に成長するのか興味がある。

その5本は現在約2~3cm位の背丈