日本語探偵・「全然」の誤用談義

月刊雑誌・文藝春秋には日本語学者で「三省堂国語辞典」の編集委員でもある飯間浩明(いいまひろあき)さんの短い常設コラム「日本語探偵」があり、日本語のアレコレを切り出しておられる。

今6月号は『「全然」の誤用談義』と題して、この「全然」がその下に肯定表現を付けることについて書かれてある。例えば「全然良い」という表現の是非である。

私はこのコラムを見るまでは「全然」の下には否定表現を付けるべきと思っていたが、どうやら間違いであったようである。

手元にある広辞苑で「全然」を引いて見ると副詞の場合以下の3種類に分けて書いてあり

①すべての点で。すっかり。

②(下に打消の言い方や否定的意味の語を伴って)全く。まるで。

③(俗な用法)(予想や懸念に反して)全く。非常に

として確かに②のように否定を前提に使われる場合もあるが①や③のように肯定的表現の前に使う用法もあると書かれている。

日本語探偵の調査した結論は以下の通り。

「全然+肯定」は昔は一般的だったが、戦後に「本来の形ではない」と誤解された。ところが研究が進んで、「全然+肯定」の汚名がそそがれた。

私自身も戦後の誤解に惑わされていた口だが、「全然面白い」「全然を美味しい」に慣れるのはなかなか難しそうで時間がかかりそうな気がしている。

ただ探偵は「使い手自身が場面に応じて判断することです」とも書かれている。

言葉や日本語は時と共に変化するものでこの事は歴史を追いかけていると強く感じる。従って殊更拘る必要もないし、あまりに柔軟過ぎるのも違和感があり、やはりホドホド感覚を自分で見切ることが一番なのかもしれない。

🔘今日の一句

 

多様なる樹々の織り成す青葉山

 

🔘健康公園の草むら、珍しい形のコバンソウ小判草

明治の元勲の愛した味

明治新政府に出仕した長州出身者で木戸孝允大村益次郎広沢真臣などが亡くなった後、長州閥を牽引したのは、伊藤博文井上馨山県有朋であったことは衆目の一致するところであり何れも明治天皇から元老として遇された。

(元老は天皇の諮問に応じて総理大臣の推薦や重要国策の決定に参画し明治国家運営の最高指導者の役割を担った)

山口県在住の同級生から送って頂いた郷土史関係の新聞切り抜きの中に、この3人に関係した面白い記事が載っている。その内容は、

「幕末維新グルメ」を味わうとして、下関川棚温泉のホテルで市立歴史博物館の学芸員を勤めていた現観光政策課職員・田中洋一氏が企画監修したイベントが開かれたというニュースである。

余談ながら新聞記事を見て直ぐ思い浮かんだのだが、この田中洋一氏には市立歴史博物館時代に長府藩々祖・毛利秀元についての画期的な著作「毛利秀元拾遺譚(もうりひでもとしゅういたん)ー元就の再来ー」があり豊臣時代から徳川時代初期にかけての毛利家の動向に関して随分参考にさせて貰った。

そのイベントは当時の史料をひもとき、3人各々が好んだ材料献立を含めて提供するものとのことであり、主催者は「食という身近なテーマを通じて堅いイメージのある歴史をより深く知るきっかけにしてほしい」と語っている。

井上馨は自ら厨房で腕をふるって客をもてなすこともあった。その一例が独特の食前酒「甘酒とらっきょう酢カクテル」、さらに大正天皇伊藤博文が好んだといわれる「井上式沢庵」沢庵にも一家言あったらしい。

伊藤博文が好物だったのが「タケノコ、フキと鶏の山椒煮」、記録には自ら小鍋「豆腐のヂワヂワ煮」を仕立てて晩酌を楽しんだとあるらしい。

山県有朋は萩名物の「チシャ菜の酢の物」など淡白なものを好んだ。

🔘元勲の好んだという献立が意外に素朴であることに大いに納得するものがある。またチシャ菜は山口県では普段からよく食べる野菜で、私も酢味噌味のものが想い出の中にある。

豆腐のヂワヂワ煮というのがどんな鍋になるのか知らないが、山口県には豆腐と根野菜を煮た素朴な郷土料理「けんちょう」がある。

🔘今日の一句

 

夏の潮紀淡と瀬戸のせめぎあい

 

🔘健康公園のスモモ(李)が熟れ始めている。今年は去年に比べて良い実りのような気がする。

園芸サークルと父の日

🔘昨日は園芸サークルの月2回定例活動日

①ジャガイモの収穫

ジャガイモ掘りでスコップを握るのは3年ぶり。土が軟らかく比較的楽な作業だが、残念ながら全体的に小ぶりな収穫だった。茎葉が全体に細かったことが影響しているのかもしれない。しかし芋の肌はきれいで美味しそうな気がする。

分け前を頂いて早速ベランダに拡げ乾燥を始めた。

畑仕事では汗の出方から夏の到来を身をもって感じる。

ミニトマトの支柱立て

茎が伸びて来たので畝全体に支柱を渡し各々の茎を抱かせる。

ミニトマトが結実し始めた

・キュウリも10cm位の実を付けて来た

キュウリの花

・ゴーヤの花

世話人さんが精魂込めたスイカ、4つの実がすでに大きくなりつつあり大きいのは直径約20cm位。

・畑に植えてあるムギワラキクとポーチュラカ

🔘昨日は父の日、例年の通り娘から夏のシャツが届いた。来月始めの施設の定例句会は兼題が「父の日」に決まっていて悩みながら取り敢えず以下の二句。

 

父の日は父の仕草で鍬を振る

 

娘(こ)の呉れし父の日のシャツ白き雲

 

周防国(すおうのくに)・鋳銭司(すぜんじ)

古代律令制下で令外官(りょうげのかん・制度に規定のない新しい官職)鋳銭司(じゅせんし・ちゅうせんし)は現代で云う造幣局で、皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)と呼ばれる和同開珎(わどうかいちん)など十二種の銅銭等を鋳造を担当する役所だったと考えられている。

河内国大阪府)、山城国京都府)、長門国山口県)におかれ、天長2年(825)には長門から周防国山口県)に移された周防鋳銭司が開設されたとされる。

長門国及び周防国(何れも山口県)に鋳銭司が設けられているのは2022年9月15日のこのブログなどに書いて来たように、大仏創建時の材料にもその銅が使われた、長登(ながのぼり)銅山などが近くにあり材料の調達に適していたからだと考えられる。

周防鋳銭司跡は現在の山口市鋳銭司(すぜんじ)にあり昭和41年(1966)に発掘調査が開始され昭和48年(1973)に国史跡に指定されている。

正式な呼称「じゅせんし」がなぜ現在の地名呼称「すぜんじ」になったかについて疑問があり、山口市教育委員会に問い合わせしたところ「明確な由来は無く語られるうちの自然の変化だろう」という答えであった。

部外者の勝手な推理では周防鋳銭司→すおうじゅせんし→すぜんじ、という変化ではないかと思うのだがどうだろうか。

余談ながら、この旧鋳銭司村を有名にしたのはこの地に生まれた幕末長州藩の軍制改革や明治陸軍の創設を指揮した村田蔵六大村益次郎であり、この地の大村益次郎を祀る大村神社を訪れたことを2023年11月29日のこのブログに書かせて貰った。

山口県在住の同級生に参考にと送って貰った地元新聞の郷土史関係切り抜きによると、鋳銭司跡の発掘調査は現在も続けられており今回皇朝十二銭の一つ「富寿神宝(ふじゅしんぽう)」が見つかったとのことである。

今までの調査では十二銭のうち三種の鋳損じ銭(鋳造の失敗品)が発見されているが、今回の「富寿神宝」は失敗品ではなく完成品で、これまで見つかった銭のなかでは最も年代が古く、周防鋳銭司での貨幣鋳造は設置年の825年から行われた可能性が出てきたとある。

また貨幣史の専門家から「古代のお金作りの実態を明らかにする上で非常に重要な発見」と評価されている。

ふるさとの歴史が日本史の中で重要な役割を果たしているとの知らせは出身者にとって興味ある嬉しいニュースである。

🔘今日の一句

 

そばに来て本読みせがむ子蜘蛛かな

 

🔘施設のキンシバイ(金糸梅)

 

「日本史サイエンス」

播田安弘(はりたやすひろ)著「日本史サイエンス」講談社ブルーバックスを読み終えた。

ブルーバックスシリーズは「科学をあなたのポケットに」を合言葉に、技術や工学系を中心に科学的なものの見方で課題を解明したり分かりやすく説明する新書版シリーズと理解している。

そのシリーズの中に人文系の歴史関係が入るのは珍しいが、著者は造船会社で長年船の設計に携わる技術者で自称船オタクとされている。

その技術者の観点から船に多少とも係わる日本史上の三つの事件の論点・謎に、歴史研究の本道である文献や古文書に依らず、科学的な手法を用いてアプローチした結果を取りまとめたものである。

そのプロセスを省いた概要を私なりに整理すると以下の通りであり、ものの見方として得るものが有った気がしている。

①Q:第一次蒙古襲来・文永の役で蒙古軍は九州博多に上陸後優勢であったにも拘らず、突然船に撤退しその後暴風雨に襲われたとされるが、なぜ撤退しなければならなかったのか?

A:蒙古軍は一日目に上陸出来ていたのはその内の一部で、その軍も日本武士団の集団騎馬突撃で進軍を妨げられており、撤退はやむを得ないものであった。

②Q:本能寺の変後、山崎の合戦での勝利を手繰り寄せた秀吉の8日間の「中国大返し」は、軍事行動の常識からすると不可能であったにも拘らず成功したのはなぜか?

A:事前の準備なく2万の大軍が8日間で実行することは不可能で、事前に相当準備がされていた。また秀吉は一部船を利用して京に急ぎ周辺武将を味方に引き入れ山崎の合戦で主戦力として活用した。

(なぜ事前の準備がそれ程出来ていたのかについては解明出来ていない)

③Q:太平洋戦争中、当時世界最強の戦艦・大和は長い間活躍する場面がなく最終局面の沖縄特攻で撃沈されたが、本当に無用の長物であったのか?

A:大和を効果的に運用する方法は戦争の過程でいくつもあった。然し戦局の推移で大和を護衛すべき空母と航空機のほとんどが失われたり、艦隊を構成すべき巡洋艦駆逐艦が設計ミスにより多数沈められ、大和は「裸の戦艦」になってしまった。

🔘特に最も興味を覚えたのは太平洋戦争中の日米海軍艦艇の比較の箇所で、巡洋艦駆逐艦の相手から攻撃を受けた場合の耐久力・復元力(ダメージコントロール)に設計思想の違いからくる決定的な違いがあるとする部分である。

特に著者が設計ミスとまで述べているのが、巡洋艦の縦隔壁の有無、駆逐艦の動力系(ボイラーとタービン)の配置から来る日本側の弱点で、この説明は目から鱗が落ちるさすがの船の専門家によるもので、貴重な知見がこの本で得られた気がしている。

🔘今日の一句

 

弁慶が群がり出でて山法師

 

🔘施設の日本庭園、画像検索ではクチナシと思われる。

 

 

 

 

 

廃藩置県(はいはんちけん)

日本の近代の幕開けとも言える明治維新の諸施策のうち明治6年(1873)の徴兵令などと並んで明治4年(1871)7月の廃藩置県明治維新の骨格を成立させた大事業のひとつであった。

明治2年(1869)実施された版籍奉還は土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還する改革であったが、直轄地以外の藩はそのまま旧藩主が知藩事になっているという封建制度が残る中途半端なものであった。

この為西洋列強に追い付くという観点からしても、中央集権を徹底するための廃藩置県は新政府にとって必須の施策であった。

雑誌・文藝春秋6月号の巻頭随筆で作家・塩野七生(しおのななみ)さんが「断頭台には送らない国での革命のやり方」と題して、この廃藩置県を捉えて、本来血を見ずには収まらないような革命的な施策が実行出来たプロセスの断面を書かれている。その骨子は、

・この廃藩置県を実行したのは薩摩と長州の出身者であったが、最も問題となったのは薩摩の実権者・島津久光の反対で、大久保利通が帰郷して説得するが失敗する。

・この為薩摩で人望のある西郷隆盛に照準を当てこれを取り込むべく、廃藩置県の政府側密議に若手の西郷の弟・従道、親族・大山巖を参画させる。

・西郷を直接出向いて説得したのは盟友の大久保利通ではなく長州の山県有朋で、兵制改革を交えて了承を取り付け、薩摩の抑えが可能となったことで公式発表にこぎ着け実行された。

・この時山県は基本了承を得たあと、血が流れることになるやも知れずその御覚悟はと重ねて問うと、西郷の答えは一言「わがはいのほうはよろしい」であった。

島津久光は西郷と大久保に裏切られたと悟り腹立ち紛れに自邸で終日花火を打ち上げた。

・西郷と山県はそれから6年も経たないうちに西南の役で城山に追い上げられた者と、それを追い上げた政府軍総司令官として相見えることになる。

🔘塩野さんは随筆の最後を以下のように結んでいる。

「断頭台に送らなくても、革命はできる。ただしそれには人一倍に冷徹な認識力が求められるのだが、それを持つ人への人気となると常に低いのが日本という国でもある」

🔘この廃藩置県を中心になって企画実行したメンバーは薩摩の西郷隆盛大久保利通西郷従道、大山巖、長州の木戸孝允井上馨山県有朋の7名といわれる。

🔘今日の一句

 

風力2港神戸に南風(はえ)の朝

 

🔘近くの施設、バラ・ばら・薔薇

五色塚古墳

住んでいる神戸市垂水区にある五色塚古墳は、築造時に近い形で復元された古墳として聞いており、いつか行ってみなければと思いつつ月日が過ぎていたが、ここに来て二つのことで背中を押されようやく昨日腰をあげて訪れた。

・俳句会でこの古墳のことを詠んだ句に出会った。

・故郷の厚狭にある二基の古墳をきっかけにして少しづつ古代の事にも関心が向くようになった。

垂水駅から15分程度歩けば良いと思って海岸通りを西へ歩いたところ、近くまで来ても電車の線路を渡る道が無く、倍くらい歩いて次の駅まで来たところで線路を渡りその後大きく迂回して引き返す羽目になってしまった。

汗を拭きつつ管理事務所の方に聞くと北側に住宅街を抜ける道があるとの事で帰りはほぼ半分の行程で助かった。

五色塚古墳は4世紀の終り頃の築造とされ全長194m(墳丘高約19m)の前方後円墳兵庫県では最も大きい古墳と言われる。以下の写真の通り明石海峡、淡路島を正面に見る海岸の台地(須磨から明石にかけての海岸線で最も突出した場所)に築かれており被葬者はこの交通の要地一帯を支配した豪族・首長と考えられている。

以前このブログで書いた厚狭の前方後円墳で学んだことから考えると、4世紀後半はヤマト王権古墳文化を浸透させて支配地域を拡大していく時期であり、また古墳の階層でトップに位置する前方後円墳であることからみても、ヤマト王権につながる大首長であったことが想像される。

事務所で貰ったパンフレットを見ると、古墳斜面に葺かれた石の一部は淡路島東海岸産であるとの分析が出ていると書かれているが、実際に復元された古墳の後円部墳頂に立つと、この古墳前方部は淡路島の東側に真っ直ぐ向いていてその符合に驚いた。

以前住んでいた八尾市は百舌鳥古市古墳群の近くであり大古墳の近くを度々通っていたが、今回のように復元された古墳の端から端を歩き、古墳の頂から全体を俯瞰するのは初めてで、その巨大さを実感すると共に古代この築造にかかる労力の大きさ、それを実行出来た権力の大きさなどを実際に体感出来たことは今後にとって大きな収穫であった。

また今回復元され管理されている五色塚古墳を訪れてみて、私の故郷にある二つの前方後円墳遺跡の現地保存状況との落差を残念ながら痛いほど感じてしまった。

・入り口のモニュメントと後方の後円部

・入り口付近前方部から後円部を見上げる

・古墳の周囲を取り巻く円筒埴輪と明石海峡大橋、円筒埴輪は荘厳さを演出すると同時に死と生の世界を切り離す結界の役割を持っていたとも言われる

・後円部墳頂から前方部を経て南方向の淡路島方面を見る。(この写真を施設のいつもの場所に掲示して貰った)

・墳頂部から前方部を見下ろす

・前方部から後円部を見上げる

全体を覆う葺石(ふきいし)はその一部が淡路島東海岸産ということがわかっている。また全体の葺石の量は計算上2784トンにも達するらしい

🔘今日の一句

 

淡路向く古墳をわたる風涼し

 

🔘近くの施設、珍しいバラ科シモツケ(この名前は栃木県の旧国名下野国・しもつけのくに」に由来している)