廃藩置県(はいはんちけん)

日本の近代の幕開けとも言える明治維新の諸施策のうち明治6年(1873)の徴兵令などと並んで明治4年(1871)7月の廃藩置県明治維新の骨格を成立させた大事業のひとつであった。

明治2年(1869)実施された版籍奉還は土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還する改革であったが、直轄地以外の藩はそのまま旧藩主が知藩事になっているという封建制度が残る中途半端なものであった。

この為西洋列強に追い付くという観点からしても、中央集権を徹底するための廃藩置県は新政府にとって必須の施策であった。

雑誌・文藝春秋6月号の巻頭随筆で作家・塩野七生(しおのななみ)さんが「断頭台には送らない国での革命のやり方」と題して、この廃藩置県を捉えて、本来血を見ずには収まらないような革命的な施策が実行出来たプロセスの断面を書かれている。その骨子は、

・この廃藩置県を実行したのは薩摩と長州の出身者であったが、最も問題となったのは薩摩の実権者・島津久光の反対で、大久保利通が帰郷して説得するが失敗する。

・この為薩摩で人望のある西郷隆盛に照準を当てこれを取り込むべく、廃藩置県の政府側密議に若手の西郷の弟・従道、親族・大山巖を参画させる。

・西郷を直接出向いて説得したのは盟友の大久保利通ではなく長州の山県有朋で、兵制改革を交えて了承を取り付け、薩摩の抑えが可能となったことで公式発表にこぎ着け実行された。

・この時山県は基本了承を得たあと、血が流れることになるやも知れずその御覚悟はと重ねて問うと、西郷の答えは一言「わがはいのほうはよろしい」であった。

島津久光は西郷と大久保に裏切られたと悟り腹立ち紛れに自邸で終日花火を打ち上げた。

・西郷と山県はそれから6年も経たないうちに西南の役で城山に追い上げられた者と、それを追い上げた政府軍総司令官として相見えることになる。

🔘塩野さんは随筆の最後を以下のように結んでいる。

「断頭台に送らなくても、革命はできる。ただしそれには人一倍に冷徹な認識力が求められるのだが、それを持つ人への人気となると常に低いのが日本という国でもある」

🔘この廃藩置県を中心になって企画実行したメンバーは薩摩の西郷隆盛大久保利通西郷従道、大山巖、長州の木戸孝允井上馨山県有朋の7名といわれる。

🔘今日の一句

 

風力2港神戸に南風(はえ)の朝

 

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