「坂の上の雲」⑥山県有朋と秋山好古のエピソード

2月20日のブログ「坂の上の雲」⑤の続き

実はブログのなかで司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」を取りあげ始めて、この際もう一度この長編を読み直して見るかという気持ちになり第1巻からゆっくり読み始めている。

この小説の主人公3人のうちのひとりで日本の騎兵の父といわれる秋山好古は、明治20年から足かけ5年にわたるフランス留学で主にフランス騎兵について学び日本騎兵建設へ向けた基礎調査を行っている。

明治22年当時の日本陸軍の総帥とも言うべき長州人・山県有朋がヨーロッパ視察旅行の途中パリに立ち寄り秋山好古と出会う場面がある。

日本陸軍はこの時兵制をフランス式からドイツ式に切り換えることを決定し、山県のフランス訪問はそのお詫びの意味合いがあった。

その出会いのなかで好古は騎兵に於けるフランス式の優位を山県に具申して馬術のみはフランス式を維持する基本了解を得る。

以下、この時の山県についての司馬さんの評価

『(山県は)ものごとについてのかんと理解力がどうやら人よりすぐれていたらしく、好古のいうことはすべて理解できた。そういうものごとの理解力とともにいまひとつかれにおいて発達していたのは、他の明治草創期の指導者と同様、人物の選定眼であった。~~~要するにかれは秋山好古という三十になったかならずの一大尉に日本の騎兵建設はまかせておく、ということであろう。』

🔘山県有朋松下村塾に学び奇兵隊に入隊、その後軍監として隊の実権を掌握、さらに高杉晋作の挙兵に参画して藩論統一に寄与、戊辰戦争を経て明治陸軍創設・徴兵制確立に力を尽くし大村益次郎亡きあとの陸軍の頂点に立った。

(山県有朋については昨年12月22日のこのブログで「なぜ山県有朋は悪役になったか」で書いたことがある)

 

【人忙(せわ)しミスドで眺む春の街】

 

🔘介護棟の庭、寒い中でも咲き続けているリナリアの仲間。