兵庫県と淡路島

現在地に越して来て毎日目の前に見える淡路島は身近な存在になって来ている。

以前にもこのブログで触れたことがあるが、兵庫県律令制の旧国、摂津(せっつ)・播磨(はりま)・丹波(たんば)・但馬(たじま)・淡路の5ヵ国にまたがる珍しい県でもちろん全国で兵庫県のみである。

他の4ヵ国は地続きでもあり理解出来るが、淡路島全域の淡路国(あわじのくに)が兵庫県というのがどうも理解出来ていなかった。

というのも淡路国の名前の由来は諸説あるなかで最も有力なのが、畿内から四国・阿波国(あわのくに)への通路である、「あわみち・あわじ」であること。

また律令制下では国内各国を五畿七道(ごきしちどう)に区分しているが、淡路国阿波国と同じく南海道に位置付けられていて明らかに県内の他の各国とは位置付けが異なる。

また江戸時代阿波国を領した蜂須賀(はちすか)氏は「大阪の陣」後にその功で淡路国を加増され以後明治維新まで阿波と淡路を一体として治めた歴史がある。

これらのことから淡路島が徳島県に帰属せず兵庫県の一部になっているのを不思議に思って来たが、たまたま図書館で見た兵庫県関連資料でこの訳を知ることが出来た。

テレビでも沢口靖子主演で放送された、船山馨の小説「お登勢」の背景になっている幕末からの蜂須賀氏・徳島藩内の抗争、特に明治3年(1870)阿波側による淡路側への武力襲撃事件・稲田騒動(いなだそうどう)がきっかけになっているようである。

徳島藩・蜂須賀氏は家老である稲田氏に1万5千5百石という大名なみの知行を与え淡路島・洲本に派遣していたが、元々稲田氏は蜂須賀家の家祖・小六正勝の時代、互いに義兄弟の仲であった由来を持つ特別の家柄であった。

(余談ながら蜂須賀小六は矢作(やはぎ)橋で秀吉の少年時代(日吉丸?)に出会い以後苦楽を共にした逸話を持つ)

幕末、蜂須賀氏自体は穏健な公武合体を志向していたが稲田氏は尊皇攘夷派に与して思想的に大きな差異があった。

明治新政府は武士の内、陪臣(ばいしん・家臣の家来)は士族扱いせず一段下の卒族(そつぞく)とする方針を打ち出しつつあり、このままでは士族の扱いを受けられないことに危機感を抱いた稲田氏家臣団は、先の公武合体尊皇攘夷の方針の行き違いもあり、徳島藩・蜂須賀氏からの分藩独立運動を開始した。

この動きに怒った蜂須賀氏直臣団が組織的に稲田家側を襲撃したのが稲田騒動と呼ばれる事件である。

この事件は吉永小百合さん主演の映画「北の零年」でも背景に使われており、多くの犠牲者や処分者を出して明治新政府の怒りを買い、紆余曲折の後淡路島の徳島県からの分離、兵庫県への編入につながったとされる。

激動の時代には地方毎に物語がある。

🔘今日の一句

 

抜歯終え目にも口にも青葉沁む

 

🔘駐車場入り口の白いマツバギク(松葉菊)

6月句会

昨日は住んでいる施設の定例6月句会があり14人の参加、都合で欠席のひとりの方も事前に出句されていた。

今月の兼題「迎え梅雨」「走り梅雨」の1句を含めて以下の5句を出した。

①菜園の小苗叩くや走り梅雨

園芸サークルの畑で、ミニトマトの苗が先日の風雨に激しく叩かれ辛い様子を詠んだ。

②国生みの島より南風(はえ)の駈け来たり

住んでいる施設の南側は大阪湾や淡路島方向にひらけていて、南からの風の通り道になっており、そこを風が上って来る様子を詠んだ。

淡路島は「古事記」で日本で最初に生まれた島だとする記述があり、国生みの島とも呼ばれている。

③鍬入れて蚯蚓(みみず)で探る土の出来

蚯蚓が生息するのは自然の肥えた土の証であり、園芸サークルの畑でも以前の自家菜園でも土を耕した際ミミズが出てくると安心した気持ちを詠んだ。

④瓶底に紅い日焼けの青き梅

青梅の紅い斑は太陽にさらされた部分であり、その梅が梅酒の瓶に沈んでいる様子を詠んだ。

郷土史に時を忘れて夏灯(なつともし)

郷土史の本を読むと難解なことも多く、ついつい熱中して時間を忘れ、灯ともし頃になってしまったことを詠んだ。

🔘結果は③の句が5人、②と⑤の句が各々3人ずつ、残りの①と④の句が各々1人ずつ選に入れて頂いた。更に②、④、⑤の各句は各々1人ずつから特選を頂き今までで一番大変嬉しい結果となった。

また館内に掲示して貰う句は⑤、③、②とした。

🔘私が特選に推した句は

海風のすこし重たし迎え梅雨

で、すこし重たし の部分が平易な言葉ながら海風と迎え梅雨の双方にうまく作用していると思った。

🔘今年も健康公園にシロツメクサ白詰草・クローバー)じゅうたんの季節がやって来た。

園芸サークルと同年会

昨日の日曜日は忙しい一日で午前は定例の園芸サークルの活動日、それから同年代の計7名が集合しての2ヶ月に1度の昼食会に参加した。

①園芸サークル、今日の活動内容は以下の通り

・キュウリとゴーヤの畝にツルを絡める為のネット張り

・タマネギの収穫とそれを各自に分配、私の貰った分を取り敢えずベランダに拡げた

ミニトマトを各自に1本ずつ抽選で配分、その結果私の担当になったミニトマト、下葉などが先日の雨風などで相当にダメージを受けておりしばらく様子を注意して見ていきたい。

・コスモスの種撒き

・スイカの花

ミニトマトの花

②同じ施設に住む◯◯年会のメンバーでの定例昼食会、今回で4回目となる。

シャトルバスで垂水に出て和食の店で和気あいあいと語り合った。漁協の直ぐ傍なので魚主体の御膳、皆さん美味しいと評価していた。

その後この辺りでは著名な海神社(わたつみじんじゃ)の辺りを一回りして駅前でコーヒーブレイクの後バスで帰宅した。

海神社は海の神様として知られる「綿津見(わたつみ)三神」が主祭神で、社伝ではこのブログでも2024年4月25日を始め数回取りあげたことがある神功皇后(じんぐうこうごう)が三神を勧請されたことになっているらしい。

神功皇后は海を渡って朝鮮半島出兵に陣頭指揮をとった伝説があるため、海神とは他の各地の伝承でも深いつながりを持っている。

🔘今日の一句

 

青梅を莚に干して昼寝かな

「魔都上海十万の日本人」

NHK 取材班編「魔都上海十万の日本人」角川文庫刊を読み終えた。同じ施設の知人の方からの頂きものである。

中国・上海を初めて魔都(まと)と名付けたのは大衆文学などを得意とする日本の作家・村松梢風(むらまつしょうふう)のようで、戦前上海を何度も訪れ租界(そかい)等の持つ特殊性から西洋と東洋が混在している様子や、犯罪の横行などを見て感じて表現したようで、現代でもその国際性や混沌としたところから一部ではこの魔都という表現が生きている。

上海は長江(揚子江)河口の南側・長江デルタに位置する中国で一、ニ、を争う大港湾都市だが、都市の主要部分が面しているのは長江ではなくその支流・黄浦江(こうほこう)である。

この地域が注目されるきっかけは1842年のアヘン戦争の結果、南京条約でイギリスが上海を開港させたことに始まり、英、仏、日、米などの治外法権エリア・租界が次々と出来たことに始まる。

租界は黄浦江の西側に拡がり現代まで残る西洋風建築が他の地域と一線を画していた。私は現役時代3年間上海に住んだが現在外灘(ワイタン)と呼ばれている旧租界エリアを見て、これは別の国のようだなと感じたことがあり、この辺りに魔都と呼ばれる要因のひとつがあると実感した。

余談になるが、幕末の文久2年(1862)長州藩士・高杉晋作は藩命による視察で上海に渡航アヘン戦争後欧米列強の支配を受ける中国の実態を見て危機感を抱き、その後攘夷運動に身を投じることになる。

この本は昭和61年(1986)放送の特別番組「ドキュメント昭和 第2集 上海共同租界」をもとに編集刊行されたもので最盛期10万人の日本人が居たとする租界の歴史を、近代中国の苦難の歴史と重ねて描かれている。

したがって列強の動向と併せ軸になるのは日中の友好と衝突の歴史であり、この本では日本と中国がはじめて真正面から武力衝突した昭和7年(1932)上海事変迄の内容が描かれる。

最終項では「昭和の歴史は、日本と中国の長く不幸な、そして不毛な戦いのときへと向けて、確実にページが一枚繰られたのであった」と結ばれている。

またまた余談になるが私の懐メロカラオケ持ち歌のひとつが、津村謙さんが唄い戦後直ぐの時代にヒットした「上海帰りのリル」で、上海租界で知り合ったリルと名乗った女性を、戦後の横浜で探す筋立てで香川京子さんなどの主演で映画化もされた。

 

🔘今日の一句

 

瓶底に紅い日焼けの青い梅

 

🔘施設の畑に入居者が植えられた初めて見るクロタネソウ(黒種草)、別名ニゲラというらしいがこれは黒いという意味のラテン語「Niger 」から来ているようで種は真っ黒なのだろう、どんな種か興味がある。

楕円球形の実、この中に種があるようだ

 

英雄たちの選択・よみがえれ大仏~重源 61歳からの挑戦~

NHK BSの歴史番組、英雄たちの選択で「よみがえれ大仏~重源 61歳からの挑戦~」が放送され録画再生してようやく見終わった。

俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)は平安時代末期から鎌倉時代にかけての僧で、源平騒乱の幕開けの時期、治承4年(1180)平家の南都(なんと・奈良)攻めで焼け落ちた東大寺大仏と大仏殿の、その後の復興を成し遂げた。

大仏の初期建立は聖武天皇詔勅に始まったことはよく知られているが、このとき以来大仏は民衆によって支持された対象で費用、労力、技術などを民の協力を得て結集する慣わしになっておりこれを勧進(かんじん)と称した。

(2023年12月28日のこのブログ参照)

重源は養和元年(1181)当時としては甚だしき高齢の61歳の時に後白河法皇の命で再建を指揮する「東大寺大勧進職」に着き活動を開始する。

活動の基本は全国を対象にした勧進活動で更に、朝廷や鎌倉幕府創始者源頼朝などにも協力を求め成功する。

重源は「入唐三度聖人」と自称したように中国(当時は北宋)に三度渡り仏教修得と併せこの折に建築、建設技術などを習得、中国人技術者・陳和卿(ちんわけい)の協力を得て自らも技術者や職人を指導したといわれる。

番組冒頭、山口県山口市徳地(とくぢ)にある重源が作った現代のサウナに当たる石風呂施設の紹介があったように、重源は山口県に深いゆかりがあり大仏殿再建の資材を調達すべく周防国(すおうのくに・山口県東部)国司に任ぜられて赴任、現地で用材の伐採運搬等の陣頭指揮をとった。

先の石風呂はその作業に当たる人々のための保養施設のひとつである。

大仏は文治元年(1185)開眼供養、建久6年(1195)大仏殿再建落慶供養、建仁3年(1203)総供養が行われた。この時重源は83歳と推定される。

「英雄たちの選択」では毎回主人公の運命の岐路とも云うべき選択が話題になるが、今回は、重源が大仏殿用材の調達のため国司(こくし)として派遣された周防国で地元の地頭(じとう)の協力が得られず、その打開策として大仏再建の大元である朝廷に頼るか、新興の実力者・源頼朝に頼るべきかの選択が提示された。

重源は自ら鎌倉に出向き頼朝に頼ったことで事態を打開した。頼朝は後白河法皇が崩じた後この大事業の最大の後援者となり建久6年の落慶供養に鎌倉から大軍勢を従えて参列したとされる。

番組の出席者のひとりが重源のことをプロデューサーでありマネージャー的な人と評していたが、僧であり精神面で人を指導できることと併せ、技術面でも指導できる素地があることが非常に有効に作用していると思われる。

🔘今日の一句

 

走り梅雨紀淡の海を渡り来る

 

🔘歯医者の近く、民家の方に了解を得て撮らせて貰ったアマリリス

🔘今朝の健康公園の小雀、どうもシロツメグサの蜜を吸っているような動作をしている。

 

 

「太平洋戦争秘史 周辺国・植民地から見た日本の戦争」

山崎雅弘著「太平洋戦争秘史」朝日新聞出版刊をようやく読み終えた。「秘史」とあるので先の戦争について偏った立場からの見解が示されるのではと多少身構えて読み始めたがその心配は杞憂で、広範囲に渡る中立的な内容を時間をかけてじっくり読ませて貰った。

 

副題に「周辺国・植民地からみた日本の戦争」とあるように太平洋戦争の影響を直接、間接に受けた諸国、・仏領インドシナ(現ベトナムラオスカンボジア)・英領マラヤ(現マレーシア)・英領シンガポール・米領フィリピン・蘭領東インド(現インドネシア)・英領ビルマ(現ミャンマー)・英領インド・英租借地香港・独立国タイ・独立国モンゴル・英連邦構成国オーストラリア、ニュージーランド、カナダが取りあげられている。

従来太平洋戦争を振り返る場合、米、英、蘭、中、ソなどの大国間の政治軍事関係が大半であったがこの本は東南アジアなど周辺国各々に細かく光を当てその実態を詳述し日本の過ちが読者に自然に理解されるようになっている。

私は現役時代かなりの時を東南アジアなどとの仕事に費やして来たが、その折に事前に各国と日本の太平洋戦争に於ける経緯を勉強したつもりでいたが、この本を読んでみてその理解は甚だ不充分であったと少し反省している。

「やった者は直ぐ忘れるがやられた者は決して忘れない」という言葉があるが、自虐的になる必要はないが、事実を直視してその上に立って国際社会と互換性のある認識を持つことの必要性を強く感じさせる本である。

各国の関係史で知り得たことはあまりに多くここでは詳細は避けるが、私自身いちばん深く考えさせられたのは戦争の初期段階で多くの国や地域を軍事的に占領した日本が一部を除き強圧的な民政で失敗し民心の離反を招いているという事実である。

この事はこれからの日本が否応なく考えざるを得ない移民問題などに向き合う上で大切な歴史から得られた知恵のひとつかもしれない。

何れにせよ良い本に巡りあった気がしている。

🔘今日の一句

 

ビル街に農事想わす走り梅雨

 

🔘施設の庭にある一本の柿の木、花からの実りへの過渡期を迎えているが木の大きさの割に実るのが少ないような気がする。立派なガクが目立つ。

 

 

放談会と園芸サークル

昨日は住んでる施設の行事に午前と午後で連続参加し比較的忙しい一日だった。

①午前、園芸サークル、本来の活動日は来週の日曜日の予定だったが苗の入手の関係で急きょ設定された。

・キュウリ10本の苗を植え付け

・ゴーヤ6本の苗を植え付け

ポーチュラカの花の苗

②午後 目先の色々な課題や問題新しい知識などを有志の少人数で話し合う放談会の月一回の定例会で、今回は私の当番に当たってしまった。テーマは前回の出席者の希望で日本の財政特に債務問題。

最新の日本の債務額を調べようと財務省のホームページに入ったところ「財政学習教材」として「日本の財政を考えよう」と題した令和6年4月発行の15ページの資料を見つけ、ほぼ自分の考えにも合致しておりこれをコピーして説明することにした。

その骨子は

・現在までの日本の債務総額は、1105兆円一人当たりに換算すると901万円/人となる。

GDP 当たりの借金比率はG 7(先進7ヶ国)のなかで最悪で概ね他の国の2倍以上である。

・国の歳出のなかで社会保障の占める割合を2024年度では33.6%を占め特に高齢化の影響による費用増大が顕著である。その為将来へ向けた課題への歳出が社会保障に比べて少ない。

・2024年度の歳入に占める国債の割合は31.0%を占めている。

・税の内最も大きいのは消費税で、所得税法人税と続く。

・国は2025年度にプライマリーバランス基礎的財政収支国債部分を除いた歳入歳出のバランス)を黒字にする目標を掲げているが2024年度予算では8兆円の歳入不足が有り目標達成は難しいのではないか。

・この状態では将来世代への負担の先送りや大きな災害などの有事に対応するゆとりが無くなってしまう。

🔘この問題については色々な議論や見方があるが、優先度の高い課題であることは間違いないように思われる。

🔘今日の一句

 

外来の種(しゅ)にも均しく若葉風

 

🔘フリージアラクサヒメヒオウギ・姫緋扇)