金子みすゞと山口県の風土

先日4月28日のこのブログで書いた「金子みすゞ・魂の詩人」には著名な二人の方が金子みすゞとみすゞのふるさと山口県の風土の関係について述べられている。

①児童文学家・矢崎節夫さんは埋もれていた金子みすゞを世に出した人として有名だが、その矢崎さんと「夢千代日記」などで著名なな脚本家・早坂暁さんの対談の中での早坂さんの言葉、

金子みすゞが生まれた山口県といえば、やはり山頭火中原中也の名前がすぐに思い浮かびます。~~~山口県は多くの政治家を輩出して政治県とされていますが、~~~そういうふうに政治的な風土性の強い、~~という県ほど、そういうものと対極の、出世とか政治とかを嫌う人たちが、その圧力のなかからかえって出てくるんですよね。~~~』

山口市出身の詩人・和田健さんの寄稿文の一部

『私は生前の山頭火と親交があったが、~中也然り、みすゞ然り、それほどこの三人は名とか誇りには縁がなかった。むしろ身をけずるように生きただけといっていい、~~~由来、山口県は文学不毛の地といわれ、反対に維新発祥の地、多くの宰相を出した土地柄として認識されてきた。それが負の面を生きた、詩人・俳人に取って代わられようとしている。それは世の中が変わったからと見ればそれまでだが、その素地は風土が培ったことに違いはない』

🔘山口県出身者として両者の論は大変嬉しいが、ただ政治風土と文学風土を表と裏の関係としてとらえられている様なところは多少気になる。

山口県の風土を形作っているのは地理的条件を別にすると、歴史的に最も大きいのは毛利氏の藩政時代260年間と思われる。

毛利氏は関ヶ原の敗戦で中国地方八カ国120万石から防長二国36万石に減封押し込められた。この為家臣団の大リストラを行ったが、36万石に不釣り合いな武士階級の数を封禄を削ってでも残さざるを得ず、また更にやむを得ず召し放ったものも防長二国で帰農土着し村の知識層の基盤になった。

多少お国自慢の身びいきになって申し訳ないが、いわば八カ国の血が山口県の風土の基盤になっているわけで、政治と文学が裏表ではなく両方の表の風土が形成されていると考えるのが正しいような気がする。


【歯の間(ま)にも残れる葉あり蓬餅】

 

🔘健康公園雑草ではないシリーズ、ヒメスイバ