「山陽町史」⑥源平合戦と松嶽山正法寺(まつたけさんしょうほうじ)

古代史の最終局面、中世史の幕開けを告げるのが源平合戦である。兵庫一ノ谷、四国屋島で敗れた平氏安徳天皇を奉じて全軍、長門国彦島(現在の下関市)に集結した。

源氏で先んじた源範頼は九州に入り平氏の背後を断ち、屋島で勝利した源義経長門に下り寿永3年(1184)3月24日、最後の戦い・壇ノ浦の合戦で雌雄を決した。

ここで敗れた平氏は幼帝以下一族ことごとく海に沈み天下は源氏の世となり源頼朝は鎌倉に幕府を開く。中世の武士の時代の始まりである。

壇ノ浦の近くに位置する厚狭で、この戦いの戦禍にかかったと記録されるのが、厚狭の象徴・松嶽山に現在も残る正法寺である。

山陽町史には壇ノ浦合戦の38年後に作られた同寺所蔵の「新券流記帳」の現代語訳が載せられている。

大戦争に際し、壇ノ浦の戦場に近いため、軍兵が寺中に乱入して宝基を侵し経蔵を破り寺庫を覆した。僧衆これを防いだが凶族は甚だ強く、終に堂舎はすべて火事によって焼けてしまった。そのため僧衆は逃散して礎石のみとなり、往古からの流記(るき)縁起(えんぎ)は焼失し勅免(ちょくめん)の料所なども他に横領されてしまった』

流記:寺院の宝物、資材、所領などを記録したもの

縁起:寺院の創建の由来や功徳などを記録したもの

勅免の料所:天皇の命で認められた(寺院)の運営に供する所領

以前このブログにも書いたことがあるが、真言密教正法寺は最盛期、山中に十二の坊、山麓に五十の坊を持つ大寺院であったと云われこれらがことごとく灰塵に帰した。

放火掠奪をしたのが平氏方なのか源氏方 なのかは判っていない。 

🔘一日一句

 

鴉来て命を食むや蝉時雨

 

🔘施設の庭、アップルミントと思われる。