岸信介(きしのぶすけ)氏の書「任 重 而 道 遠」

安倍元首相の悲しい出来事は衝撃であったが、海外からの反響はその評価の高さを再認識させられる。
この事もあり山口県の同級生グループLINEで祖父に当たる岸信介元首相の揮毫(きごう)された書が紹介されていた。

「任 重 而 道 遠」と書かれている。

「任 重く 而(しこう)して道 遠し」「責任は重くそうしてその道は遠い」と読めるがいつ書かれたものかはわからない。
もし戦前ならば満州国に赴任する前か商工大臣に就任した折だろうか。
私の勝手な想像では戦後総理大臣として日米安全保障条約改定を志した時のような気がするのだが。

何れにせよ世評にある「昭和の妖怪」といった姿ではなく重い使命感を背負った人間らしい姿が垣間見得る。

昭和35年と云えば私は小学校5年生だったはずだが、当時日本全体が揺れに揺れた日米安全保障条約改定の反対運動は「アンポハンタイ」のデモ隊のかけ声と、参加した学生・樺(かんば)美智子さんの圧死事件の記事が小学生の私の記憶にも残る程激しい日本中を巻き込んだものだった。

住んでいる施設のライブラリーにある半藤一利著「昭和史・戦後篇」平凡社刊 によると当時岸内閣の強硬路線は相当国民の反発を買っていたようで、そのような世間の声を知りつつ、
「棺(ひつぎ)を蓋(おお)いて事定まる」
(自分の死んだ後にはこの事が理解されるだろう)
と周辺に言って改定を成立させたと書かれている。

以前大阪教育大学公開講座を受けたときに、この時の安保改定の内容を学んだが、改定の中身は、
それまでの占領時から続くアメリカに一方的に有利ないわば片務条約から「基地を貸す以上はアメリカが日本の防衛を義務とする」双務的な内容に変えるもので、私は政治的な党派性やイデオロギーの左右何れをも全く与みしないが、現在の国際情勢から振り返って見ても歴史的に正しい選択だったような気がする。

ただ欲を云えば国民的合意を作る過程をもう少し丁寧に進める方法は無かったのかという思いはあるのだが、長州人の「忍びぬままに・直情径行」のなせる業だったかもしれない。

孟子(もうし)の一節で郷土の大先輩・吉田松陰も好んだと伝えられる、
「自ら顧みて なおくんば 千万人といえども 吾往かん」
はこの時の岸信介氏の心情にふさわしい言葉かもしれない。

🔘今朝いつもの歩きに出ようとすると、出口の土間でアブラゼミが出迎え。

🔘今朝の東の空、陽をさえぎる良い形の鱗(うろこ)状の雲