「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」

先週4日(月曜日)に垂水駅前に用事で出掛け、時間調整は図書館で本を借りることにしていたが、月曜は休館日であることを忘れていた。
取り敢えず以前借りていた本はポストに入れて返却したものの時間が余り、つい禁じ手の本屋へ立ち寄ってしまい関幸彦著「刀伊の入寇中公新書 を購入してしまった。

刀伊とは中華思想から来ている東夷(とうい・東の蛮族)の音(toi)を当てた朝鮮語から来ているとされ、日本でもそのまま使われたらしく異境や辺境の人々を表し、具体的には朝鮮半島の北、中国東北地方東部一帯に居住して半農半牧を営む女真族(じょしんぞく)を云う。
後に12世紀中国の主役になった「金(きん)」はこの女真族が建国した。

日本が外敵の侵攻を受ける事件は13世紀鎌倉時代元寇(げんこう)と呼ばれるモンゴル軍の来襲が有名だが11世紀初頭に発生した女真族の侵攻・刀伊入寇を知る人は比較的少ない。(寇とは外敵のこと)

私は5~6年前に作家・葉室麟(はむろりん)さんの小説「刀伊入寇・藤原隆家の戦い」を読んでいつかこの史実をもう少し詳しく知りたいものだと思っていたが、今回偶然出会いこれも縁だなとすぐさま購入し、ようやく読み終わった。

今から約1000年前中国・唐は滅亡し分裂の時代を経て宋王朝が成立していた。
朝鮮半島では統一新羅(しらぎ)が滅亡し高麗(こうらい)が建国された。
北満州方面ではモンゴル系の契丹(きったん)族が勃興していた。
日本は藤原氏全盛の平安時代藤原道長が「この世をばわが世とぞ思うーーー」と詠っていた。

契丹族に圧迫される女真族はその一部が海賊化して南下、高麗各地を荒らし回ったが、寛仁3年(1019)3月から4月にかけて日本に来襲、これが「刀伊入寇」と呼ばれる事件である。

当時の史料をもとにした事件の概要は
・3月28日刀伊の兵船50余艘が大挙して対馬壱岐に来襲、殺人放火をほしいままにした。
その報は4月7日には九州を統括する大宰府に伝わった。同日、刀伊は筑前(福岡県)に侵攻、各地を荒らし回った。
また4月13日には肥前(佐賀県長崎県)松浦(まつら)にも来襲、その後退去した。
・報告史料によると死者364人、被虜者1289人、牛馬被害380頭に及ぶとされ、被虜者が死者の3倍を超えるのは大陸の奴婢(ぬひ・奴隷)市場への供給があったと云われ牛馬は食料にされた。

日本側の迎撃は小説「刀伊入寇・藤原隆家の戦い」の主人公で、当時大宰権師(だざいのごんのそち・大宰府の実質長官)で最高権力者・藤原道長の甥でもあった藤原隆家を指揮官として、京から隆家にしたがって下向した随兵(ずいひょう)、大宰府の官人、九州の住人武者などが奮戦した。

戦後これらの人々は官職や位階の恩賞を受け中世武士団へ成長する基盤になった。

日本は海に囲まれた国ではあるが周辺の国際情勢次第では外敵の侵攻が1000年も前からあり得ることを示している。
それにしても1200人を超える人々が連れ去られ大陸で売られるという悲惨な出来事は、もう少し表の歴史に出てきてもよい忘れてならない事実である。

🔘施設の庭、ラベンダーと思われる。

🔘今日は朝から本降りの雨、どうしようかと思いつつ歩いてきた。公園の歩経路はランニング用に整備されズボンが濡れる事がない。いつも通り汗が出て清々しい。