「吉野の霧 太平記」

桜井好朗(さくらいよしろう)著「吉野の霧 太平記吉川弘文館刊を読み終えた。

よく知られているように、「太平記」は鎌倉時代の終焉から室町時代の始まりに至る日本列島全体を巻き込んだ動乱の時代、いわゆる南北朝時代を扱った古典である。

この本は中世史の専門家である著者が、40巻に及ぶ太平記を若者向けに24のエピソードとして現代語抄訳したもので、元々1978年に刊行されたものを歴史専門出版社の「読みなおす日本史シリーズ」のひとつとして復刻されたものである。

表題に使われている「吉野の霧」は、動乱の主役のひとり南朝後醍醐天皇が吉野で亡くなられるエピソードの章題にも使われており、本の「はじめに」を読むと、著者はこの霧を人間世界の見通しのきかない状況、動乱が始まる前の混沌とした状況に見立てている。

私の子供の頃、「太平記」は色々なエピソードが児童書に使われていて、小学校下校時に図書館に寄り読み耽った想い出が、この本を読む過程で立ち上がって来た。本の内容と想い出が重なる例を挙げると、

後醍醐天皇に加担した公家・日野資朝(すけとも)が鎌倉方に斬られ、その仇を年若の息子・阿新(くまわか)が討つ。

後醍醐天皇が夢のお告げで楠木正成を召し出し、正成が河内国(かわちのくに・大阪府)千早赤坂城で旗をあげる。

後醍醐天皇隠岐島に流される途中で備前国(びぜんのくに・岡山県)の武士・児島高徳(こじまたかのり)が天皇へ自らの忠節の意を込めて桜の木に中国・呉越の故事由来の詩を刻む。

天、勾践(こうせん)を空しうすることなかれ

時に范蠡(はんれい)、なきにしもあらず

(越王・勾践を天皇に、忠臣・范蠡を自らに例えた)

足利尊氏南朝に叛いて九州から攻め上って来た折、楠木正成は自らの進言を拒否され、兵庫に赴き足利軍を迎撃するよう指示され、兵庫・湊川で討死する。

この他にも太平記には多くのエピソードと想い出があるが、字数の関係でこのくらいに。

南北朝の動乱は地方の隅々まで波及し、私の故郷の山口県・防長二州でも大小の争いの記録があり、中でも長門国を地盤とする厚東(ことう)氏と周防国大内氏との対立は大規模で、各々南朝北朝との紆余曲折があり、最終的に厚東氏は滅亡、大内氏が西中国北九州一帯に覇をとなえることになる。

60年以上前の記憶に繋がる本に出逢った。

🔘今日の一句

 

新豆腐豆は信濃(しなの)と若店主

 

🔘施設のあちこち、テッポウユリ

去年古株を刈り取った後に出てきた新しいススキの穂に囲まれたテッポウユリ