般若寺(コスモス寺)歴史と文学

コスモス寺として知られる奈良郊外にある般若寺へ行ってきた。名前の由来は都を奈良・平城京に遷(うつ)して後、天平7年(735)聖武天皇が都の鬼門(北東)を守るため大般若経を納める卒塔婆(そとば・供養報恩の為の建造物)を建てられたのが起こりとされる。
この寺は時代の流れの中で幾多の事件や戦火に遭遇しており、折角の機会なのでこの内文学とも関わりのある三つのことを書くことにした。

平家物語 平家の南都攻め
後白河法皇藤原氏などを排除して朝廷の権勢を一手に握った平家・平清盛に対し、南都と呼ばれた奈良の東大寺興福寺は旧朝廷とも関係が深く、驕(おご)る平家に反感を抱いていた。
治承寿永の源平合戦のさきがけとも云える以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとよりまさ)の挙兵等もあり僧兵の軍事力を持つ寺社勢力を抑えにかかった平家に対し南都側が反抗したため、平家が東大寺興福寺など主要な寺社を焼き払った。

この時南都側は防衛線のひとつを般若寺脇の般若坂に置いたがそれを平家に突破され主要な寺社は焼亡、大仏殿・大仏も焼け落ちた。
また般若寺も灰塵に帰して鎌倉時代の再建を待つことになる。

太平記 護良親王(もりよししんのう)
大塔宮(おおとうのみや)・護良親王鎌倉幕府を倒し「建武の新政」を行った後醍醐天皇の皇子で、もともと武芸に秀でたとされる。
倒幕計画が幕府方に知られ天皇隠岐に流された折には、倒幕運動の中核になったため幕府に追われる身となり一時般若寺に隠れた。

幕府方の追及捜索を寺が受けた際、寺の経蔵の経を納める箱に隠れて難を逃れた有名な逸話がある。

親王建武の新政が始まると征夷大将軍に任ぜられるが、足利尊氏と対立して後醍醐天皇からも遠ざけられ、後に尊氏の弟・足利直義によって殺害される。

護良親王が隠れたと伝わる経蔵

この事を詠った森鴎外の短歌
〈般若寺は端ぢかき寺 仇の手をのがれ わびけむ皇子しおもほゆ〉

吉川英治宮本武蔵」般若坂の決闘
作家・吉川英治の代表作のひとつが「宮本武蔵」だが、当時槍で最強と云われた興福寺塔頭(たっちゅう)のひとつ、宝蔵院の院主で宝蔵院流創始者・胤栄(いんえい)と対決する話である。

これは中村(萬屋)錦之助主演で映画化され私は確かTVで見たような記憶があるが、般若寺の辺り・般若坂(般若野)で、宝蔵院の槍の使い手の僧達を集めて決闘するように見せかけ、当時奈良にたむろして悪行を働く浪人や野武士を槍衆と協力して一網打尽にするストーリーになっている。

余談だが槍の宝蔵院流といえば現代まで受け継がれている槍の流派で、司馬遼太郎さんの代表作のひとつ「新選組血風録」の中には「槍は宝蔵院」という短編がある。

◎また般若寺は戦国時代末期、松永久秀三好三人衆が奈良・大和の覇権を争った戦さで東大寺大仏殿などと共に焼け落ちている。
今はコスモスが咲き誇っているがこれ程戦いを繰り返し見てきた寺もまた珍しいのではないだろうか。

◎朝の歩きで鴨を見る季節になってきた。3羽のようだがもう1羽隠れて居ます。鴨は不思議なほど2羽一ツガイで行動している。奇数で居るのをあまり見掛けない。