代官所日記のまえがき・肥中(ひじゅう)の港

今年8月の日経新聞特集記事「NIKKEI STYLE」でコロナウイルスが終息したら訪れたい、「爽快なドライブを楽しむ絶景の橋10選」と題して各種の専門家が選んだ橋が特集されていた。

その1位が山口県下関市の北端、日本海に浮かぶ角島(つのしま)と本土を結ぶ「角島大橋」で全長1780mのこの橋を渡る時の海の景色を「心を奪う青の美しさ」と表現していたのが記憶に残っている。
同級生から送って貰った角島大橋

この角島大橋よりすぐ南に位置するのが天然の入江に恵まれ古くからの日本海航路の港であった肥中(山口県下関市豊北町)である。

室町時代山口に本拠を置き大陸貿易で財を成し西国に君臨した大内氏はこの地に船倉や関を設けて関奉行を置き、山口から肥中まで肥中街道を通じさせて山口の外港の一つとして機能させた。

大内氏滅亡後は室町時代~江戸時代を通じて毛利氏の支配となったが、毛利氏もこの地を日本海流通航路支配の拠点として重要視した。
また秀吉の九州征伐や朝鮮の役にはこの地から毛利氏の軍勢の一部が出撃したと云われる。

厚狭毛利家代官所日記に記された騒動の発端は、この肥中港の沖合いに異国船が現れたとの事から始まっている。
場所的には毛利本家の居城、萩のすぐ近くであり毛利藩挙げての騒動が目に浮かぶ。

◎余談ながら実は代官所日記に「肥中沖に異国船」の記述を見たとき「肥中」は異国船から連想して長崎のことだと思ってしまった。
九州肥の国は肥前(佐賀、長崎)肥後(熊本)があるが、これから連想したのだが、色々調べても日記が書かれた嘉永5年に異国船が来航した記録がなく、更に調べていくと毛利藩内に肥中という重要港があった事が漸く分かってきた。

といったように代官所日記を現代文に直すのは意味不明の言葉や文字を理解するのに結構時間がかかり、思ったより難しい作業になって苦労している。

◎サツマイモの栽培ではツルや葉が繁茂してくるが、それを放置しておくとツルに余分な根が張ってイモの成長を阻害する。
これを防ぐために時折ツルを土から剥がして返してやる。
小さな根を剥がした状態

ツルを返した状態

ツルを返したら小さなバッタが手にとまった、掌を動かすと翔んでいきそうなので必死にこらえて写真を撮った。