厚狭毛利家⑧当主の下関・海防総奉行就任

幕末の文久2年(1862)朝廷で攘夷(外国船打ち払い)の方針が決定され、文久3年(1863)4月将軍家茂は攘夷期限を5月10日と朝廷へ奉答した。

これらの動きを先取りし、長州藩は藩主の居館を萩から海に遠い山口に移し、藩士の土着帰住を決定、警備体制を定めた。この時最も重要な下関について、下関に領地を持つ支藩長府、清末が一の手、下関に近い私のふるさと厚狭を知行所にする厚狭毛利家当主毛利元美(能登)は二の手を拝命した。

この経過をへて長州藩文久3年4月の新体制で毛利元美は赤間関(下関)海防総奉行に就任、総奉行配下の士卒は2000人とされたが内約600人(残りは萩で待機)が総奉行とともに萩から下関に出張布陣、また別に領地厚狭からも総勢70名が厚狭川下流梶浦から乗船して下関に直行し総奉行傘下に合流した。

[ 厚狭毛利家領内を管轄する厚狭代官所の現存する日記4月23日の記録に「赤間関ヘ出張の諸士並足軽中間今五ツ時御館ヘ相揃読知被仰付、四ツ上刻梶浦ニテ乗船九ツ時宮崎の鼻出帆候ニ付、同所迄見送候事」とある。]

この時総奉行一手とは別に、久坂玄瑞をはじめとする、京都で国事に奔走していたいわゆる尊皇攘夷派が攘夷実行を掲げ藩の了解も得て下関の光明寺に宿営、公家・中山忠光を盟主に押し立て光明寺党と呼ばれ他藩士も交え、少壮気鋭の50ー60名を擁して総奉行とは並立する状況にあった。

こうした背景のなかで厚狭の行く末を分けた攘夷期限の文久3年5月10日を迎えることになる。