厚狭毛利家⑬世子廃嫡問題

厚狭毛利家10代目元美(能登)は文化9年(1812)父房晃の失脚隠居により、わずか2歳で家督を継いで以来、若き日は厚狭に在郷、その後萩に出て藩の要職を勤めて幕末維新の変動に直面するが、藩論が反幕府で統一された後は旧派に属していたため用いられること無く厚狭で晩年を過ごすことになる。

元美は子がなく異母弟の宣次郎(親民)を世子としており、宣次郎は元美代理で下関海防総奉行や諸隊追討総奉行を勤めるなどしたが明治4年(1872)元美が隠居して後、別の血の繋がらない養子親忠が11代を継いだ。

この元美から養子親忠への相続が如何にも不自然で、なぜ世子として決まっていた宣次郎への相続が行われなかったのか、山陽小野田市立歴史民俗資料館の学芸員の方にも教えを受けながら調べて見た。

①山陽町史の記述では宣次郎が病弱であったと書かれている。
②厚狭毛利家家臣であった二歩家の日記、慶応3年12月の記述には〈若旦那(宣次郎)様、御惰情に付き〉とありその後親類筋に願ったり、家臣一同協議して藩政府に廃嫡を嘆願しようとする記述がある。またその事を元美も了解した記述もある。

惰情とは一般に怠け者を言うと思われるが、宣次郎は元美の代理として下関海防総奉行を勤め藩主より褒美を賜り、更に明治2年から3年の脱退騒動、百姓一揆の対応指揮を取って現地出張もしており病弱惰情と言う表現には何か引っ掛かりがある。
更に家臣が集まり山口へ嘆願を協議する等、封建制度の中では尋常でない気もする。

史料が少ない中で、歴史家ではないので勝手な推測を許して欲しいのだが私は以下の通りではないかと考えている。
【宣次郎は元美の代理として諸隊追討総奉行となる等、明治新政府や現藩政府に対して敵となった消しがたい経歴があり、このままでは厚狭毛利家が立ち行かなくなることを懸念した家臣一同が、親類、当主夫妻を巻き込み廃嫡運動をしたが真の理由を表に出せない為、惰情として取り繕った。】

◎封建的な時代、「主人は絶対」と思いがちだが江戸時代でも武家社会では誠に酷い主人に対して、家来が結束して主人を謹慎させる「主君押込」という慣行があった。厚狭毛利家の事例がこれに類するか未だわからないが興味深い事件である。