ボートレース女子

ボートレースは以前競艇と呼ばれていたと思うが、競馬や競輪のモーターボート版で水上の周回レース着順にお金を賭けて一喜一憂する。

競艇は郷愁を感じさせる言葉で、ふるさとの隣町・長府に「下関競艇場」が今に至るもずっとあり、幼い頃父親に連れて行かれた折の、ボートが水上を疾走するシーンの記憶が残っている。

また女性ながら硬派の論調で知られる作家の曽野綾子さんは、ボートレースの収益金を、社会に還元するための組織・日本財団の会長を長く勤められ、海外まで自ら足を運ばれる活動は、一本筋が通ったものに見え、ギャンブルへの偏見を和らげる事に大きな貢献をされた気がする。

そんな中、いつもの日課で録画のための番組表を見ていると、
NHKBS1のスポーツ×ヒューマン「男子に勝つのがカッコイイ・ボートレース大山千広」という番組が目にとまり録画して観た。

現在のボートレースの競技については全く知識がないので、大山千広(おおやまちひろ)選手といっても何も分からなかったが、母親もボートレース選手で、地道な努力を重ねて女子の第一人者に近付いている若手のホープらしい。

ボートレースの勝敗はかなりの部分スタートの良し悪しで決まるとの事で、フライングギリギリの攻めのスタートが大山選手の信条らしく、このスタートに賭ける色々な工夫や努力が描かれる。

ボートレースの最高峰のグレードは「SG」といい、このレースを男子に混じって戦い勝つことを目標にしているが、スタートと同じく重要なのが周回時のターンの精度で、ボートのバランスをとるため体幹、体力が必要で女子は男子選手に比べるとかなり不利になる。

大山選手がボートレース養成所に入った時点の成績は、ビリから2番目だったが、努力でここまで来たとのナレーションが流れた。
勉強もスポーツも不得意で両親が離婚という環境の中で、男子と混じって戦う母親に憧れ、年間9レースしかなく未だ女子が勝ったことがない「SG」に、男子を押さえて勝つことを目標に日々精進する姿はとてもカッコイイ。

2020年はまだ目標達成まで行かなかったようだが、近い将来の勝ちを応援したくなるような番組内容だった。

ボートレース大山千広選手の名前をこの番組で記憶した。

◎懐かしい昔通りの干し柿
家内が例年通り正月明けに、瀧谷不動尊(大阪府富田林市)にお詣りし、農家の人から買ったもので5個一包みだったが、1個は私が先に食べた。
子供の頃生家にあった柿の木に、沢山実を付けていた渋柿で作った干し柿と同じ、甘く複雑な懐かしい味がした。
f:id:kfujiiasa:20210109191640j:plain

和泉国・和田(にぎた)氏

私のホームコースのある大阪府堺市を地図で見ると、和田川など和田(わだ)という地名が、たくさん出てくる。
これは中世、和泉国(現在の大阪府を構成する、旧国名、摂津、河内、和泉の内の一つ)大鳥郡和田(にぎた)郷を中心に発展していった武士集団に由来していると思われ、地名を称す以前は大中臣(おおなかとみ)姓であったといわれる。

ホームコースで長い間ゴルフをご一緒していたメンバーに、今は病気療養中の和田さんが居られ、かねてよりこの和田氏に縁があると話されていた。

年末に完成した私の本「厚狭吉亭日乗」を近い内にお会いして渡すことになっており、この際和田氏のことも話されるとのことなので、少し事前勉強も必要かと思い、自分の蔵書の中から
和泉・和田氏について記述のあるものを探してみた。

取り敢えず1時間かけて見付けたのは次の2冊。
1、「中世の大阪ー水の里の兵たち-」
f:id:kfujiiasa:20210108110210j:plain
2、「大阪府史第三巻中世編1」
f:id:kfujiiasa:20210108110828j:plain

大阪府史にはかなり詳しい記述がある事が分かり、これは和田さんにお会いして話を聞いてからの楽しみにとっておくことにした。

「中世の大阪ー水の里の兵たちー」加地宏江・中原俊章著、松籟社刊は、主に摂津国渡辺を地盤にした渡辺党を中心に書かれたものだが、和泉国の代表として和田氏に2ページの記述を割いている。
[渡辺党は嵯峨源氏の出自で、源頼光大江山の鬼・酒呑童子退治伝説に参加した4天王の一人渡辺綱(わたなべつな)の一族]

この要約は
・当初河内に住んだが、後和泉国和田郷に進出。和田氏が開発した土地を金剛寺に寄進した形にして金剛寺や大和春日社と関係を持ち地域住民を支配した。

鎌倉時代には西国御家人として幕府に従い、南北朝時代河内国在庁官人としても力を発揮した。

南北朝時代河内の楠木一族と深い関係を結び、この関係から南朝方で参戦した事が多く(北朝方になった場合もある)、楠木正成(くすのきまさしげ)が討死した湊川(みなとがわ)や、その子正行(まさつら)が討死した四条畷(しじょうなわて)では和田姓の武者が多く戦死や、殉死している。

せっかくの縁なので和田さんの話を聞いた上で「にぎた」からなぜ「わだ」の読み方になったのかも含め、もう少し掘り下げてみたい気がする。

◎歩きの途中で見かけた、畑の隅の植物、これは何だろう?
とにかく今日も寒い!
f:id:kfujiiasa:20210109094248j:plain
f:id:kfujiiasa:20210109094345j:plain

造船大手連合の船出へ期待

以前から、海運や造船については島国ニッポンの基幹産業という意識で、個人的に業界をフォローしている。

この内造船は戦後の一時期、世界一の造船量を誇り他国を圧倒していた様子が記憶に残っており、人件費等の要因からトップの座を滑り降り中国、韓国に規模で劣るような位置に甘んじている状況が残念でならない。

過去、この苦境を脱すべく合併や再編が繰り返されてきた。
国内造船最大手、今治造船はその名前の通り瀬戸内造船業を代表する企業だが、中規模の造船会社を次々に吸収していくことで造船量国内最大となった。

一方国内2位のジャパンマリンユナイテッド(JMU)は主に大手重機械メーカー(日立造船JFEIHI、住友重機械)の造船部門を統合して出来た会社。

昨日の日経新聞に、この国内1位と2位の両者の、営業と設計機能を統合した新会社・日本シップヤード(株)が1月1日付けで発足したことが載っていた。

今海運では他業界と同じく環境対応が最優先課題になっており
次世代の燃料が、アンモニア、水素、バイオエネルギーなどの何れになるのか、大きな岐路に立っており、私の勝手な希望で言えば、統合した設計機能が上手く働けば、世界シェア3割ずつの中国、韓国(日本のシェアは2割)を逆転できるかもしれない。

また記事では、これを契機に各々が持つ生産部門・造船所、今治造船10ヶ所、JMU5ヶ所の再編も進むのではないかと書かれておりコスト競争力の回復にも期待が持てる。

国内需要に限界があるが、海外に目を向けると海運物流の重要性は、ますます増加すると予測される。
かつての造船王国や、戦艦大和、武蔵の建造歴史を知る身からすると国産技術力の再結集で一発大逆転に繋げてほしいと切に思っている。

今朝はこの冬一番の寒さを実感、初めて手袋、帽子を着けて歩いたが、耳はカバー出来ておらず風が当たってとても痛い。
歩き終えた後の熱いコーヒーが体に沁みた。
・歩きの道筋、アパート脇のミカンが食べ頃。
f:id:kfujiiasa:20210107162544j:plain

社友会(OB会)40周年記念誌

家電メーカーに定年まで勤務して、退職後は社友会と名が付いたOB会に、名ばかりに所属させて貰っている。
この会が出来て40年という区切りらしく、記念誌が送られてきた。
会社は100年以上経過しているがOB会はまだ半分も経過していないらしい。
f:id:kfujiiasa:20210106112746j:plain
これを見て驚くのは、とにかく高齢の退職者の皆さんが元気に活動されている事、平均寿命が伸びて、良くも悪くも社会全体で高齢者の比重が高まっているのを実感する。
現在、会員は4700名を超えているらしい。

記念誌は
・各地域支部の様子
・忘れられない思い出の仕事・仲間
・これが生きがい 社友会の同好会と仲間たち
・今も続いている仕事・職場仲間の深い絆
・趣味こそ我が人生 私の今日この頃
という構成で編集されているが、全体を通じて退職後の生活を
有意義に過ごすべくそれぞれが、日々好きな道に努力されていることが伺える。

私も一時期、趣味のゴルフで同好会に入れさせて貰おうと思ったことがあるが、その折は仕事と一線を引いた方が良いと知人にも言われ取り止めたのだが、今思えば良かったのか悪かったのか?

会員の同好会や個人での趣味や楽しみを見てみると
・山登り
・野菜作り
・写真、絵画、書道
・短歌、俳句、川柳
・ヨット、釣り
・地域貢献、ボランティア
・マラソン
・楽器演奏、カラオケ
・ゴルフ、テニス、ゲートボール
等々、本当に幅広い。

掲載されている中で面白く、共感する詩句作品
・川柳同好会
「妻の愚痴聞く振りすれば日々平和」~~岩西信雄さん
・「風」俳句会
「石橋をかがみて過ぐる梅雨の船」~~奥田剛さん
・短歌
「新年会さなかに一首ひらめきて 箸袋のうらそっとメモする」~~先野浩治さん

然し各ページに掲載されている会員の写真は、至極当たり前だが、みんな高齢者の顔になっている。多分私もその一員なのだろう。それはそうとして姿勢ぐらいはシャキッとして、負けずに頑張ろうと思って読み終えた。

◎歩きの途中、また鴨たちを平野川に見掛ける季節になった。
f:id:kfujiiasa:20210106113023j:plain
f:id:kfujiiasa:20210106113051j:plain

「大阪で本を作る楽しさ、難しさ」

1月4日のこのブログで取り上げた、大阪大学適塾記念センター発行の機関誌「適塾No53」に、統計を交えた面白い大阪の記事が載っている。

大阪で、創業15年と新しくて小さな出版社を経営する中島淳(なかしまあつし)さんが、大阪という地域で本を作る苦労や面白さを書かれた「大阪で本をつくる楽しさ、むずかしさ」がそれで、昨年末、自分の本が完成したこともあり、つい身近なこととして読んでしまった。

・日本の出版に関する中心は圧倒的に東京にあり、2019年の出版社数の統計がそれを端的に表す。
1位 東京都 1489社
2位 大阪府 108社
3位 京都府 74社

・人がどれくらい本にお金を使っているかが分かる、一世帯当たりの年間、雑誌・書籍購入費。
1位 長野県 17760円
2位 東京都 17114円
3位 高知県 17095円
39位大阪府 11743円

・大阪人が知的好奇心より大事にしていると思われるものが「飲み食い」で喫茶店の数、
1位 大阪府 8680軒
2位 愛知県 7784軒
3位 東京都 6710軒
お好み焼き店の数。
1位 大阪府 2850軒
2位 兵庫県 1947件
3位 広島県 1656件

これらの客観的データも含めて大阪での出版のむずかしさを語り、偽らざる本音として『もうちょい活字にもお金を使ってくれよ!』と書いている。

ただ反面、以下のような事から大阪で本を出すことに楽しみや面白さがあるとも語る。
・東京の出版事情(例:ヘイト本が多い)から距離を置ける。
・大阪には歴史の埋もれた断片が多数残されている。
・普段使っている言葉に近い書き言葉での表現が可能、出版物だからといって「よそ行き」にならず身近な人に話しかけるというスタンスを受け入れてくれる。

どこの世界にも自分の好きな稼業に懸命に取り組む人がいる。

◎ほうれん草の初収穫、この野菜は寒さをものともせず育つ。
f:id:kfujiiasa:20210105154940j:plain

丑年に牛の想い出

この年齢になってくると、正月を新しく迎えることは、子供の頃のような嬉しい感情はあまりなく、むしろまた年の峠を越えてしまったという、寂寥感や満足感が混ざったような不思議な感覚の方が強いような気がしている。

日頃は無縁で過ごしている干支(えと)だが、さすがに自分の干支の丑年となると少し関心があり、牛のことに想いを巡らすことになってしまった。

今、牛といえば私も含め大方は、焼き肉やすき焼きなど食欲の方に関心が行くと思うが、私の子供の頃育った田舎では、牛肉が食卓に上がることなど滅多になく、農家だったこともあり住居の続きに牛小屋があり、最初の主は農作業用の役牛、後に乳牛に変わった。

牛は概ね大食で、購入する配合飼料だけでは間に合わず、あぜみち等で刈った草や、稲藁を小さく切ったものを混ぜて食べさせる。
また、田んぼに連れていって耕作等をさせるのだが、牛はとても大人しい動物で、子供の私が一人で手綱を引いても大人しく付いてくる。

馴れてくると、一人で耕作などの牛使いも何とか出来るようになってきた。
また乳牛の場合は乳搾りも経験した。これも牛が炎症を起こさないような上から下へゆっくりと搾る手順があった。

また乳牛の出産シーンに初めて立ち会った時は衝撃的で、今でも母牛の苦し気な表情が記憶にある。

当時、実家から厚狭駅に向かう道沿いには「牛市場」があり、定期的に競り市が開かれ、そこでは牛の売り買いをなりわいにする博労(ばくろう)と呼ばれる人たちが集まり、声をあげていたのも懐かしい風景である。

後年、仕事でタイに赴任中、郊外のゴルフ場に行き、近くの水田で、昔の故郷と同じ牛による耕作風景を見てつい見とれてしまった事がある。

これらの記憶やイメージが残っているので、BSTVの番組「ワイルドライフ」などで野牛がライオンなどに果敢に立ち向かうシーンなどを見ると俄然、頑張れと応援したくなる。

◎歩きの途中、空き地の塀の上で、雀の群れが寒い朝、陽射しを受けてひなたぼっこ。
f:id:kfujiiasa:20210104151832j:plain
f:id:kfujiiasa:20210104151856j:plain

適塾⑥福沢諭吉

以前このブログでも触れたように、私のふるさとを治めていた厚狭毛利家のお抱え医の家系・桑原兄弟が、緒方洪庵先生の大阪適塾塾生であったことから、それを調べる過程で大阪大学適塾記念センターが運営されている、適塾記念会に入会している。
この為最新の機関誌「適塾No53」が送られてきた。
f:id:kfujiiasa:20210103155516j:plain

この中に一時期適塾の塾頭(じゅくとう・塾生の中で最高位)でもあった福沢諭吉の自叙伝「福翁自伝」を元に、当時の適塾塾生の日常生活を追跡した、大阪大学適塾記念センター助教・尾崎真理さんの〈「大坂」と洪庵・適塾生ー北船場を中心に〉と題した面白い講演記録が、掲載されている、

福沢諭吉は云わずと知れた慶應義塾大学の創設者で一万円札でも顔馴染み。九州中津藩下級武士の出身で、生まれたのが大坂堂島に有った中津藩大坂蔵屋敷と云われる。
地図で見ると生誕地と適塾のあった大坂北浜とは驚くほど近いことが良く分かる。

この記録を読むと当時の若い塾生たちの血気盛んな有り様が良くも悪くも分かるがその一端は、
・当時およそ普通の人間らしいものは出入りしない、牛鍋屋や鶏肉屋(とりや)での食事や出入り。
・繁華街・道頓堀や遊里の新町新地などでの遊興いたずら。
・酒屋をだまして化学実験用に徳利を盗む。
・薬屋の依頼で熊の解剖、薬になる胆のとりだし。
・罪人の解剖。
・但しいたずら遊興の類いは月に6度設定される会読(試験)の終わったあと位でそれ以外はひたすら勉強に没頭。
等と、若い日にありがちな日常が描写されている。

また「福翁自伝」にはこうも書かれているらしい。
・学問勉強ということになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出るものはなかろうと思われる。
・大阪からわざわざ江戸に学びに行くというものはない。行けば則ち教えるという方であった。
・ただ昼夜苦しんでむつかしい原書を読んで面白がっているような、言うならば「目的なしの勉強」のお陰で大坂の書生は江戸の書生よりもよく勉強ができたのであろう。

これらの記述から福沢諭吉は、
「目先の利益のみにとらわれず、純粋な好奇心や向学心をもって広く深く学ぼうとする適塾生の姿勢が、適塾が優秀な人材を多数輩出した理由だ」と考えているようだと、講演者の尾崎さんは総括されている。

何れにしろ、かつて大阪に適塾があり、今もその建物が当時のままで立派に保存され、更にその研究が継続されていることは、大阪の懐の深さを表していると思える。

◎歩きの途中、南天の実が紅い。
f:id:kfujiiasa:20210103155841j:plain