私のホームコースのある大阪府堺市を地図で見ると、和田川など和田(わだ)という地名が、たくさん出てくる。
これは中世、和泉国(現在の大阪府を構成する、旧国名、摂津、河内、和泉の内の一つ)大鳥郡和田(にぎた)郷を中心に発展していった武士集団に由来していると思われ、地名を称す以前は大中臣(おおなかとみ)姓であったといわれる。
ホームコースで長い間ゴルフをご一緒していたメンバーに、今は病気療養中の和田さんが居られ、かねてよりこの和田氏に縁があると話されていた。
年末に完成した私の本「厚狭吉亭日乗」を近い内にお会いして渡すことになっており、この際和田氏のことも話されるとのことなので、少し事前勉強も必要かと思い、自分の蔵書の中から
和泉・和田氏について記述のあるものを探してみた。
取り敢えず1時間かけて見付けたのは次の2冊。
1、「中世の大阪ー水の里の兵たち-」
2、「大阪府史第三巻中世編1」
大阪府史にはかなり詳しい記述がある事が分かり、これは和田さんにお会いして話を聞いてからの楽しみにとっておくことにした。
「中世の大阪ー水の里の兵たちー」加地宏江・中原俊章著、松籟社刊は、主に摂津国渡辺を地盤にした渡辺党を中心に書かれたものだが、和泉国の代表として和田氏に2ページの記述を割いている。
[渡辺党は嵯峨源氏の出自で、源頼光の大江山の鬼・酒呑童子退治伝説に参加した4天王の一人渡辺綱(わたなべつな)の一族]
この要約は
・当初河内に住んだが、後和泉国和田郷に進出。和田氏が開発した土地を金剛寺に寄進した形にして金剛寺や大和春日社と関係を持ち地域住民を支配した。
・鎌倉時代には西国御家人として幕府に従い、南北朝時代は河内国在庁官人としても力を発揮した。
・南北朝時代河内の楠木一族と深い関係を結び、この関係から南朝方で参戦した事が多く(北朝方になった場合もある)、楠木正成(くすのきまさしげ)が討死した湊川(みなとがわ)や、その子正行(まさつら)が討死した四条畷(しじょうなわて)では和田姓の武者が多く戦死や、殉死している。
せっかくの縁なので和田さんの話を聞いた上で「にぎた」からなぜ「わだ」の読み方になったのかも含め、もう少し掘り下げてみたい気がする。
◎歩きの途中で見かけた、畑の隅の植物、これは何だろう?
とにかく今日も寒い!